天災は、忘れぬうちにやってくる!これから始めるBCP

セミナーで語ることもない関東大震災四方山話~震災と近代文学~

2023.08.28
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総合研究部 専門研究員 大越 聡

はじめに

関東大震災の東京文部省の荒涼たる焼跡の写真
東京文部省の荒涼たる焼跡(出典:防災科研/自然災害情報室)

2023年9月1日は1923年に発生した関東大震災からちょうど100年にあたり、世間ではさまざまなところでメモリアルにちなんだ催しがなされている。関東大震災の興味深いところは日本人が近代化してから初めての都市型巨大地震であり、写真や文章による当時の記録が豊富に残っており、近年でも新たな発見が後を絶たないことだ。本稿を執筆している8月27日付朝日新聞の1面トップには、「100年前に静岡で撮影か フィルム発見」という見出しが躍った。見つかったのは13分30秒ほどの35ミリフィルム。静岡県旧伊東町(現伊東市)を襲った津波の跡が残されていた。筆者は個人的に関東大震災でも津波が発生したのではと考えていたのだが、それに類する記録を捜すことができなかったため、今回のフィルムがいかに貴重なものかがよく分かる。フィルムの映像は朝日新聞デジタルの巻頭大震災100年特設サイトに掲載されている。9月は防災月間。従業員への防災教育にも役立てていただきたい。

▼関東大震災の津波被害とみられる映像フィルム発見 「貴重な資料」(朝日新聞デジタル)

さて、面白いニュースに接したので多少固い書き出しになってしまったが、本稿の趣旨は「セミナーで語ることもない関東大震災の四方山話」について書くことである。今年が関東大震災から100年にあたることから「少し当時のことを調べてみよう」と思い立ったのは昨年末のことだ。きっかけは一冊の本だった。古本屋できまぐれに「酒との出逢い」(文藝春秋編)という大正・昭和の文豪たちのお酒にまつわるエッセイ集を買ったところ、冒頭に永井龍男による「関東大震災のころ」という短い随筆があり、この短編がジャーナリスティックに当時の庶民の様子を描写していて、大変興味深かった。

永井龍男という人を知らない人も多いと思うので簡単に説明しておく。昭和初期に活躍した小説家・評論家で、元々小林秀雄らと同人誌を作っていたが、そのなかの作品が菊池寛の目に留まり、文藝春秋の編集長などを務めていた人物。その後芥川賞の選考委員などを歴任したが、筆者の年代では村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が芥川賞を受賞したことに猛反対し、選考委員を辞退したことで知られている。

永井の随筆については後に詳しく見ていくが、要するにこのエッセイ集を読んだことがきっかけで「関東大震災にまつわる文筆家の筆跡をたどってみたら面白いのでは」と考え、本を集めてみることにした。やはり当時の人たちはとても筆まめで、「天災は忘れたころにやってくる」で有名な物理学者・寺田寅彦だけではなく様々な小説家が当時のことを書いている。地域別に見ていくと上野・千駄木界隈では有島武郎、野上弥生子、芥川龍之介、室生犀星らが、番町・日比谷・田町界隈では泉鏡花、与謝野晶子、島崎藤村、佐藤春夫、田山花袋らが、横浜・鎌倉・小田原当たりでは久米正雄、北原白秋、谷崎潤一郎らが、その筆腕を様々な媒体で振るっていることが分かる。

当時の小説家はジャーナリストの面も持っており、震災翌月の10月には『アララギ』が「震災報告号」を出したことを皮切りに『改造』/「大震災号」、『カメラ』/「大震災写真号」、『女性』/「文壇名家遭難記」、『新潮』/「狂災に当面して」、『中央公論』/「前古未曽有の大震・大火惨害記録」、『婦人公論』/「自然の反逆」など多くの雑誌で特集が組まれ、さまざまな論考がなされている。テレビ映像による記録と違い、それぞれの主観によるそれぞれの震災の様子が、(語弊を恐れずにいうと)とても生き生きと描かれており、興味深いものだった。もちろん、近年にも『関東大震災』(吉村昭)や東日本大震災を受けて改めて関東大震災を紐解いた『関東大震災の社会史』(北原糸子)のほか、『関東大震災を歩く』(武村雅之)、『関東大震災と鉄道』(内田宗治)などの優れた著書も出ている。

「関東大震災のころ」

前置きが長くなったが、永井のエッセイを見ていこう。まず、『関東大震災はもう五十三年も昔の大正十二年九月一日、東京神田駿河台下の私の家は、おそらく宵のうちに焼けたと思う。正午近い地震では、大した被害を受けなかったので安心していると、いつの間にか黒煙が空を覆い、にわかに避難の人数が増してきた』とある。神田駿河台下はJR御茶ノ水駅から南側、神保町方面に向かう地域だ。翌日の朝の描写では『我が家の残っている訳はなかった。見渡す限りの焼け野原になった』とある。

この描写では、後によく言われることだが関東大震災は地震で亡くなった方よりも強風による火災(火災旋風)により亡くなった犠牲者の方が圧倒的に多かったことが分かる。死者10万5千人のうち、およそ9割の9万2千人が火災で亡くなったといわれている。この時の夜の最大瞬間風速は22m/s。およそ17m/s以上は台風レベルなので、関東大震災は実は「地震と台風の複合災害だった」ということがよく分かるだろう。

続いて読んでみる。『しかし、飯田橋を渡り神楽坂下までたどりついて、私は息を呑んだ。そこから見上げた目に、昨日と同じ平穏無事の東京の町がある。すしやが洋品店が小間物屋が、坂の両側に軒を連ねていた。東京の中に、焼けない町のあることが、一瞬不思議としか思えなかった。神楽坂界隈は、それから一時、東京一の繁華街になった』とある。少し調べてみたところ奇跡的に難を逃れた神楽坂界隈には松屋や三越などのデパートまで引っ越してきたそうだ(もっともその後2年ほどで東京の復旧とともに元に戻っていった)。当時のこの界隈の様子が手に取るようにわかって面白い。

その後、永井は中野にある姉の嫁ぎ先に転がり込む。ただ、何もせずにいるのも悪いと思い始めたのが、新聞の号外の露店売りだ。『焼けずに済んだ報知新聞が「震災画報」というグラフィックを売り出した。次兄がそこに勤めていたので、私はこれを仕入れ、新宿駅の前にゴザを敷き、鈴を鳴らして画報を売った。中野駅の前でも飛ぶように売れた』とする。

こちらも少し解説が必要だ。当時の東京5大新聞と言えば東京日日新聞(現・毎日新聞)、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞(現・朝日新聞)があった。関東にしか拠点のない時事新報、国民新聞は関東大震災を機に立ち直れず休刊に。東京日日と東京朝日は大阪拠点があったため、精力的に号外を出して部数を伸ばした。報知新聞は読売新聞に買収され、生きながらえることができた。こんなところからも、BCPでいう「代替拠点戦略が有効」であることを伺い知ることができるだろう。

寺田寅彦と関東大震災

寺田寅彦は1878年、東京麹町に生まれる。幼少期に一時高知市内へと移り住み、母君から1854年に発生した安政東南海地震と津波の恐ろしさを子守歌代わりに聞いて育ったという。1856年に熊本で高校生となった寅彦の英語教師が若き日の夏目漱石であり、その後2人は終生の友人となる(蛇足だが、『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八は寅彦がモデルとなっている)。

その後、東京帝国大学理科大学に進学。当時の日本物理学会の巨人である長岡半太郎の薫陶を受ける。ここは想像するしかないが、長岡は生涯を地球物理学の創設と研究に捧げていたことから、寅彦も自然と地震についての興味を深めていったのではないだろうか。関東大震災を経験したのは45才の時。それまでも「金平糖の研究」「尺八の研究」「火花の研究」などユニークな研究を進めていた寅彦だが、関東大震災以降は東大地震研究所に勤務し、地震学者として現代にも通じる数々の論考を残した。

漱石の影響を受けた寅彦は優れた文筆家でもあった。震災当日も「震災日記より」という随筆で詳細な記述をしているので、少し抜粋してみる。

『雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人(おっと)からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。

椅子に腰かけている両足の蹠うらを下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。

(~中略~)

主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大したこともないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した激しい波が来て、2度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった』

『椅子に腰かけている両足の蹠うらを下から木槌で急速に乱打するように感じた』『本当の主要動が急激に表れた』という描写は、揺れている時間が15秒から30秒といわれる直下型地震の揺れ方の典型だが、数秒後にさらに2回目の大きな揺れがあったことが分かる。少し飛ばして、店からの帰り際の様子を見てみる。

『預けた蝙蝠傘を出してもらって館の裏手の集団の中からT画伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒にいた。そのとき気のついたのは付近の大木の枯れ枝の木などが折れて落ちている。地震のために折れ落ちたのか、それとも今朝の暴風雨で折れたのかは分からない』

あまり言われていないことだが、関東大震災の前夜にも暴風雨があったことがこの描写で分かる。関東大震災は本当に暴風雨や台風の間の出来事だった。よく訓練のシナリオを作るときに「地震と台風を一緒に発生させてはどうか」という話をするが、まさに関東大震災はそのようなシチュエーションだったことが分かる。

加えて、関東大震災では「火災旋風」が発生したことも昨今の研究で指摘されている。大規模な市街地火災では、「旋風」と呼ばれる竜巻状の空気の渦(巨大なつむじ風)が発生して大きな被害をもたらすことがある。この旋風は、人や物を吹き飛ばすだけでなく、その猛烈な風によって急速な延焼を引き起こしたり、火炎を含んだ竜巻状の渦である「火災旋風」に発展したりする可能性があるという。関東大震災でも、人々が避難していた陸軍被服廠(工場)の跡地であった空き地に旋風が襲来し、この場所だけで約3万8千人もの方が亡くなったことが分かっている。

次に震災翌日の9月2日の描写を見ていこう。浅草の親戚を心配する寅彦は浅草に向かうも、火災のため断念する。

『松住町(現在の千代田区外神田)まで行くと浅草下谷方面はまだ一面に燃えていて黒煙と焔(ほのお)の海である。煙が熱く咽(むせ)っぽく眼に滲(し)みて進めない。その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難してくる人々の中には顔も両手も火膨(ひぶく)れしたのを左右二人で肩にもたらせ引きずるようにして連れてくるのがある』

その後、永井と同じようにお茶の水近辺の悲惨な情景を目の当たりにする。

『浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町からお茶の水に方へ上がっていくと、女子高等師範(現在のお茶の水女子大学)の庭は杏雲堂病院の避難所になっていると立札が読まれる。お茶の水橋かは中ほどの両側が少し崩れただけで残っていたが、駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦げの死体が転がっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった』

やはり、駿河台近辺の火災は非常に深刻なものになっていたようだ。寅彦の「震災日記より」は震災前の8月14日から9月3日までを描いており、3日には都内で食料が欠乏していく様子が書かれている。短編なので、興味のある人は読んでいただきたい。

関東大震災と写真

少し話は横道にそれる。関東大震災当時の写真はたくさん残っており、気象庁や防災科研のサイトで閲覧することができる。

▼関東大震災資料:災害写真(自然災害情報室/防災科研)
▼「関東大震災から100年」特設サイト > 関東大震災の記録

実は昔から、当時の写真技術の高さ、構図の確かさに「誰が撮ったものなのだろう?」と漠然と疑問を持っていた。例えば防災科研のサイトで見られる写真としては「横浜震災南太田付近」のS字構図や、有名な「東京文部省の荒寥たる焼跡」など、後に「絵葉書として売り出した」という逸話があるくらいの名作といっていい写真が残っている。今年が関東大震災から100年という節目に当たるためいろいろ調べてみたところ、これらの写真は岡田紅葉という著名な写真家が多く撮影していたことが分かった。岡田は有名なところでいえば 千円札の裏側の「逆さ富士」の原版となった写真を撮るなど、生涯を富士山に捧げた写真家だったが、若い頃に東京府から依頼され、関東大震災の記録写真を多く撮影したという。彼の写真で、現在でも当時の焼け野原となった東京が手に取るように分かる。日本国内における災害報道写真の草分けともいえるだろう。

大森VS今村論争

小説家の吉村昭による『関東大震災』(1977年/文春文庫)は関東大震災における様々な事象を切り取り、小説風に仕立てた名作だ。そのストーリーの1つに「大森VS今村論争」がある。地震学者の間では有名な話なので、ここで最後に紹介しておきたい。

大森房吉は明治元年の1868年生まれ。先に紹介した長岡半太郎と同世代の人で、1891年に発生した濃尾地震のきっかけに地震研究を開始し、後に東京帝国大学教授として日本に地震学を創始したメンバーの一人だ。「大森式地震計」などの多くの研究成果は世界の地震学者に影響を与えるものだった。一方で今村明恒は同じ東京帝国大学地震学教室の助教授であり、大森との歳の差はわずか2歳であった。

この話の舞台は大正4年(1915年)にさかのぼる。当時、東京で地震が頻発していた。東大地震学教室の地震計は11月12日午前3時20分頃から約25分にわたって地震の継続を記録。その後も4時間半ほどの間に21回地震計の針が触れた。その後おさまったように見えたものの、午前8時、10時、午後2時と大きな地震が相次いだ。さらに3日後にも比較的大きな地震が発生し、東京市民は激しく動揺した。もちろん当時の東京に暮らす人は、安政地震が発生したときには1万5千人にも及ぶ死者が出たことを覚えていたからだ。新聞記者たちもこの事態に色めき立ち、東大地震学研究室に取材を急いだ。この時、大森は京都にいたため新聞記者たちの相手をしたのが今村だった。また当時、市民の間には「地震は60年ごとに起こる」という噂があり、安政地震からちょうど60年が経過していたことも市民の不安をあおっていた。新聞記者にこのことを問われた今村は、新聞記者にこう語り、翌朝の新聞各紙に大きく報道された。

「昨日も亦(ま)た地震。前後3回で震源地は上総一宮。安政から六十年といふ問題。万に一つが百に一つに変わった」(東京日日新聞)

要するに今後、地震の発生する可能性が非常に高まっていると市民の不安をあおるような発言を記者にしているのだ。その後も地震は続き、5日後までに計65回地震計が震えたという。当時の東京市民の動揺は察するに余りあるだろう。

さて、この発言を新聞で見た大森は不快に思った。当時の地震研究のトップにある大森としては軽々しく、「大地震が発生する」と発言することは社会を不安に陥れることにもなり、「いたずらな予測で憶測をしゃべるものではない」という立場だった。実はこの時から10年前にも大森と今村は同じようなことで対立している。今村は明治38年(1905年)に出した論文で以下のように記している。

「過去の地震の中で最も激烈なりしもの、即ち多数の壊家及び死人を生じたものは慶安二年、元禄十六年、安政二年の三回の大地震であって此等は皆夜間に起こつた。さうして此三大地震は平均百年に一回の割合に発生して居り、尚最後の安政二年以降既に五十年も経過しているから、今後五十年以内に斯ういふ大地震に襲われることを覚悟しなくてはなるまい」

この時の論文も、大森にとっては非常に軽率な発言に思え、大いに反対した。今回も同様の今村の発言があったということで、大森は様々な場面で記者に対して「東京が大地震に見舞われるのは数百年に1回である」と話し、今村説に反論した。それにともない市民の間で恐怖感は徐々に減っていったという。もちろん今村もそれに対し憤慨し、「地震は必ず五十年以内に起こる。もしそれまでに自分が死んだら、大地震の起きたときはすぐに墓前に報告に来てくれ」と妻に命じたほどだった。

結果としては今村が正しく、今村が論文を発表してから18年後に関東大震災が発生した。このとき大森はどうしたか。関東大震災が発生した時、大森は遠くシドニーで地震学会に出席していた。実は当時大森は既に体に変調をきたしており、シドニーに向かう船の中では食欲もなく、食べても何度も吐いた。シドニーで関東大震災の報を聞いた大森は急遽帰国するが、日本についた時は既に重篤な状態だった。自分のこれまでの言動について反省するも、「地震はいつか必ず発生する。それまでにインフラを地震に耐えられるものにしなくてはいけない」というかねてからの持論は正しかった。特に上下水道管の耐震補強を大森は長く政府に訴え続けており、その思想は現代にも受け継がれている。大森は「後藤(新平)子爵に、思い切った復興計画を立てるように伝えてくれ」と弟子に伝え、その後まもなく死去した。

関東大震災を契機に、東京の地震対策や地震研究は大きく前進することになった。大森と今村の論争は、地震の発生時期については対立するものであったが、「地震に対して強い日本を作らなければいけない」という思想は共通していた。現在の私たちの暮らしは、彼らの強い思いの上に成り立っていることを忘れないようにしたい。

参考文献

(了)

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