SPNの眼

クライシスの語源から現状を見通す(2012.8)

2012.08.01
印刷

クライシスの語源「決定」

 クライシスの語源について改めて調べてみました。クライシスcrisisとは、ギリシャ語のkrineinから来ており「決定する」という意味です。こ れに抽象名詞語尾のsisが付き、krisisクリシスとなると「決定的なもの」という意味になるそうです。

 これには「決定的レベルにまで至った危機」と「決定すべき危機」という二通りの解釈が可能かと思われます。まず先に、後者の「決定すべき危機」とは一体何でしょうか。

 これは「危機的事態が、最早決定(決断)を下さなければならないところまで切迫している」と解釈することができます。つまり、「これ以上、先延ばし、先送りできない危機的状況」と言い換えることができると思います。

 そのため、前者の「決定的レベルにまで至った危機」の意味にも、結局は重なりますので、この二つの解釈 には、大きな差異はないとも言えます。ただ、前者の方は「発生が回避不可」で、「危機の増大と被害の拡大がコントロール不可」という意味まで内在している と解釈できます。

 ところが、後者の「決定すべき危機」の方は、予知や予防、あるいは潜在化の段階においても「決定すべき」タイミングは複数回あった、さらに言えば、それらの段階を越えてからも、なおも暫く「決定」をしないままでいた、というニュアンスが含まれてきます。

 いずれにしても、そのような「決定」を要する局面では、リーダーシップと、確立された初動対応システムという二つの要素の存在と、それらが正常に発揮、発動し、十分機能することが不可欠と考えられています。

 ところが、東日本大震災と福島第一原発事故対応を代表事例として語られることになった、それらの各種システムの不全と欠陥は、他の企業・組織不祥事にも、少なからず共通して垣間見られることです。

リーダーの「決定」の阻害要因

 そこで、それらの「決定」に関わる一連の推移を、先程後者の解釈を言い換えた「これ以上、先延ばし、先送りできない危機的状況」の、その”状況”のなかに含意されている幾つかのキーワードを基に、検証し、問題の本質に迫ってみたいと思います。

 まず一つ目は、やはり、リーダーシップ、リーダーの資質の問題になります。これは決定・決断を下すのが リーダーの最も重要な仕事、あるいは専権事項ですらあるならば、あまりにも明白な問題意識として、率先して検討すべき課題です。リーダーの責任の範囲には 本来、必要以上の”先延ばし、先送り”の余地はないはずです。

 そもそも、リーダーシップに不可欠な「決断力」が備わっていないとすれば、それは致命的と言わざるを得 ません。しかし、それ以前に、正当、かつ賢明な決断にまで導いてくれる”情報収集や客観的な状況分析”すらなされていない、あるいは、それ自体をも”先送 り”していたとすれば、どういう結果になるでしょう。

 二つ目は、想定の問題です。想定外の問題と言い換えても良いほど、両者は表裏一体なのですが、これは一 つ目の問題とも大きく関わってきます。少し細かい話しになりますが、「想定する」と「想定しない」という区分は、「想定できる」と「想定できない」という 区分にも、上手く当てはまるのであれば、あえて問題視することもないでしょう。

 しかし、それら以外に「想定できたけれども、想定しなかった」という新たな区分と選択肢を生じさせるのです。

 この新たな選択肢は、優れて評価の問題でもあります。つまり、評価の妥当性の問題です。「想定できたけ れども、想定しなかった」ということは、前半の「想定できた」との評価活動・評価行為は妥当であったものの、後半の「想定しなかった」という評価結果は、 極めて恣意的で、妥当性を欠くものとなってしまいます。「見たいものだけ見る」、「見たくないものは見ない(見えないことにする)」ということが判断基準 になっているのです。

 この想定と評価の関係で言えば、たとえば、 “天災” の想定は過小評価に基づき、 “人災” の想定は、集団利害という無責任体系の暗闇のなかに息を潜めています。

 これでは、一つ目のリーダーの決断を歪めるだけでなく、”(決断に至る)情報収集や客観的な状況分析” に対しても、まったく資することのない、間違った情報を提供することになってしまいます。そもそも、意図的に情報を上げないという判断すらなされることがあるのです。

 リーダーの責任が極めて重いことは言うまでもありませんが、このような恣意的な動機が発生する背景は、リーダー個人やその属性・性格とは直接の関係はありません。

 その背景を明らかにするには、リーダー周辺の意思決定集団が持つ、思考や態度、さらには価値観や倫理観まで含めた、「決定プロセス」への関与形態とその行使された影響の度合いを考慮する必要があります。

 三つ目は、一つ目、二つ目にともに絡んできますが、特に二つ目の”意思決定集団”がさらに拡大 する問題です。それは、特定利害集団ともいえる”村”の存在と継続を前提としています。前段に「決定すべきタイミングすら逃した」というような意味合いの ことを述べましたが、それは「村の論理・利害」に従っただけの結果でもあります。

 要するに、「村の論理」の前には、リーダーも抗い切れないという現実を浮かび上がらせ、所詮「村の論理」の前では、リーダーシップなど期待できるものではないという日本的悲観論に結び付くものです。

“村の論理” と”空気の支配” からの脱却

 さらに悪いことに”村”を支配する”空気”は変化を好みませんし、外部から”水を差される”ことをも拒みます。

 福島第一原発事故に関わる4つの事故調査報告書にも各々表現を変えながら、言及されているこの 問題は、東日本大震災にだけ関わるにとどまらず、その他のすべての企業・組織不祥事に対して、コンプライアンスやコーポレートガバナンスの適用とその効用 範囲からも、するりと逃れ切ってしまう要因(むしろ、影の主役)として、頻繁に顔を覗かせてきました。

 かつて、山本七平氏が指摘した、この”空気”なる化け物への対処法も、マネジメント手法だけに 依存せずに、考えていかねばならない時期に、そろそろ来ているように思います。一番上位は、文明ですが、その他、経済・経営だけでなく、文化・制度・政 治・法制・社会・風習・教育・精神・宗教・労働・都市計画・科学技術・国際競争力・人生価値・幸福論等々からの複合的で、総合的なアプローチが必要な時と 言えましょう。

 さて、クライシスの語源「決定する」を手掛かりに、いろいろと再考しなければならないことが、明確化されてきたと思います。まず、その”決定権”を誰に委ねるのか、また「決定プロセス」をどのように透明性を担保しながら、再設計するのかという問題にたどり着きます。

 もちろん、「決定内容」に関する支持・不支持の表明は、あらゆる”村”と、”村”以外の公式・ 非公式の”場”からも、多角的・多層的になされるべきだし、多数意見が決して正しいわけではないときには、たとえばポピュリズムの弊害に陥らないために も、少数意見の説明責任が、十分果たされる機会を確保しなければならないのです。

 これは、多数意見によって支配される”空気”の打破や”換気”の促進にも有効に機能するのでは ないでしょうか。そこに、あるべきクライシスマネジメントの準備と発動と結果のサイクルが見えはじめ、その延長線上には継続するリスクマネジメントサイク ルの動態まで把握できるようになるでしょう。

Back to Top