SPNの眼
グローバリズムの影響
「国益」や「公益」というと少し大仰な物言いになりますが、「危機管理」を考える上で、また「国家」や「社会」、さらに「企業」と「個人」を考える上でも、欠かせない概念といって差し支えないでしょう。それは、例え企業単位の「危機管理」が「自社益」の極大化とその毀損の極小化を目指したものだとしてもです。
何故なら、その極大化はもちろんのこと、極小化のプロセスにおいてでさえ、社会とのバランスを考慮せざるを得ないからです。自社益が社会とのバランスの上に考慮すべきものである以上、国益や公益を古臭い固定的な観念であると帰してしまうのは、あまりにも早計と言えましょう。
これまで、戦後の期間の大半において、国益や公益より私益の優先が是とされる傾向が強かったために、それぞれの私企業の危機管理と国益・公益の三者の距離感には微妙な差異が生じていました(国益・公益の定義を曖昧にしてきた経緯もありますが)。
その分、危機管理の方は、軸足を各経営局面ごとに変動させることができました(これを軸のブレと見るか、フレキシビリティの発揮と見るかは議論の分かれるところです)。
また、国益と公益自体が完全にイコールでないため、つまり、その内実と範囲の比較において、一致と不一致を併せ持つための混乱を生みながらも、私益の優先がやがては、国(公)益に資するとの確信が共有されていました。つまり、経済成長が国と国民生活を富ませ、国民を幸福にするはずだと。
国益・公益・私益の三者の関係整理をしていくなかで、改めて前二者が”古臭い固定的な観念”ではないことは明確です。この前二者は、相互照射を余儀なくされる関係にあります。この相互照射は、両者の意味するところの重複部分(範囲)をある一定比率以上に保持するメカニズムをサポートする役目を果たしてきました。そのメカニズムとは、何かと言いますと、実は「グローバリゼーション」なのです。つまり、グローバル化に乗り遅れると国益も公益も損ねるとの論理構成と論理展開です。
ここはグローバリズムと言い換えてもよいのですが、何故「グローバリゼーション」の方を用いたかと言いますと、現在進行形の「グローバリゼーション」の促進思想としての表層的なグローバリズムに狭義されてしまうことなく、「グローバリゼーション」の帰結としてのグローバリズム(正体あるいは行き着く先)を胚胎する過程としての「グローバリゼーション」が、何ものか(ある狙いや思惑)を企図したり、企図しなかったりを繰り返す動態、謂わば、色付けが無意味(善悪の判断や影響の大小の解釈が最早困難)なグローバル社会形成のメカニズムとして、すでに作動・作用してしまっているからです。
つまり、現行メカニズムの正体を現下の時点では、狭義(表層的)にも、広義(深層的)にも、どちらにでも受け取れる二面性を実はグローバリズムが保有しているため、その混乱を回避するために用いたのですが、結果として、あるいは経過として、国益や公益に資しているのかは、すでに綿密な検証を必要としています。
国益の経緯
ところで、国益は、字義通りそれぞれの国民国家(Nation)にとっての利益です。各国は自国の利益が最大化されるような政策を採ります。そして、それは主に内政ではなく、外交として展開されます。それ故、国家間で国益と国益が衝突すれば、国際的緊張が高まり、地域紛争が勃発したり、場合によっては戦争にまで発展します。
また、各国が勝手気ままに自国の利益だけを最大化しようとしても、地球という惑星のスペースも資源も有限ですから、力まかせに、それらを独り占めしようとすれば、軋轢や争いが起こるのは必然です。19世紀後半からの帝国主義による植民地支配は、まさにそれが体現したものでしたし、第二次世界大戦後の冷戦構造も、自陣営の拡大と世界分割という両陣営が企図した目的においては、それ以前の構図や動機が特段変化したわけではありませんでした。
日本やドイツの国益の追求の仕方に、何がしかの歪みがあったことは事実でしょうが、両国の国益を潰した連合国側の国益追求にも、また別の歪みがあったこともまた事実でしょう(その後の東西冷戦構造をすでに胚胎していたわけですから)。
戦争に勝利することは、一時的にはその国に国益をもたらしましょうし、その国民をして、興奮させ、”ある種の狂気”をも発生させます。日本においても、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件を持ち出すまでもないでしょう。”狂気”が狂気のままで居座るのか、それとも”正気”に戻るのか、これによって、その国の国益の基準(貪欲さ)は大きく変わってきます。
そして、冷戦終結後の現在、西側諸国とイスラム諸国との軋轢・テロとの戦い・イスラム諸国内部での紛争と混乱、また、アジア周辺領域での緊張と対立等々、相変わらず国益丸出し(欲望剥きだし)の状況を呈し続けています(この場合の国益は、権力者層益といってもよいのですが)。ただ、ある種の”狂気”や”憑依”は国民から、政府の中枢レベルまで感染したかのような様相を見せつけることがしばしばあります(結局、イラクから大量破壊兵器が見つからなかったことに対する米国政府の対応や古くはベトナム戦争開始時のドミノ理論等)。
国益を追求・確保するのは、至極真っ当な議論であり権利なのですが、ここで留意しなければならないのは、自国益の追及のためには、第三者である他国の国益や権利を不公平・不公正に、かつ不合理・理不尽に奪い、侵しても構わないのかという問いであり、視点であります。
もちろん、戦争に至ることは、できるだけ回避すべきですし、外交交渉はそのためにこそあり、その外交交渉過程でできるだけ自国に有利になるように進めたいのが本音です。
しかし、外交交渉自体も冷徹なパワーゲームに支配されています。
したがって、このパワーゲームに負ければ、また国益を損なったとの批難を浴びることになるのも事実です。このパワーゲームに向けて用意すべきは、ソフトパワー・ハードパワー含めた多様な外交カードしかないのでしょう。
さて、ここで問題となるのが、改めて「国益とは何か」ということです。特に「国益を損なう」とはどういうことなのでしょうか。国益とは、即ち国家の利益です。国家とは、政府と国民と領土のことです(もちろん、これに歴史や文化を加えることが妥当でしょう)。
国家が、それらの要素が一体化・統合化されたものであるなら、問題視する必要はないのですが、どうも現実的にはそうはなっていないようです。
そこにグローバリズムの侵入により統合が分断される余地が生じています。さらに、「国益を損ねる」とか、「国益を害する」とかいった場合には、一体それは「誰にとっての国益か」を問わざるを得ない局面が増えていることも確かです。
公益の敷衍
それが、この”国益”議論を複雑な様相に呈しているのです。例えば、国益よりも”省益”が優先されることが多々あります。その問題が報道されることも決して少なくないのですが、ほとんどがいつの間にかあやふやになってしまいます。
霞が関が、自国(益)よりも米国の顔を立てたという事例も、戦後枚挙に暇がなく、多くの歴史家や外交官が指摘するところです。敗戦国であるのだから、仕方がないといってしまえばそれまでですが。
この数年の政治状況の推移のなかでは、政権が自民党、民主党、そしてまた自民党と変わったことと、その前提の一つとしてのアジア外交の緊迫のなかで、国益がより一層重視されるようになったこと自体は歓迎すべきことです。ただ、戦後の長い歴史をひも解けば、対中・対韓・対露関係以上に国益問題の中核は、実は対米関係であったことは、断続的に続いた(TPP等今なお続く)経済・貿易交渉を振り返れば明白です。
そのなかで、単なる省益ではない真の「国益」とは何か、といえば、それは国民益にほかならないでしょう。国民益に資することのない国益などあるはずがありません。
そして、国民益とは「国民が幸福でいる状態」であることに異論はないでしょう。国民を不幸にしているのに、「これは国益に適った政策だ」などという議論は詭弁以外の何ものでもないからです。
ところが、現在、日本国民は経済的に層化され、確実に階級化が進んでいるのが実相です。さらに、格差社会が長期化・固定化しつつあります。
そうなると、国益から国民益と言い換えても、「今度はどの階層にとっての利益なのか」という古くて新しい問題(疑心暗鬼)に付き当たらざるを得ないのです(例えば、富裕層や既得権益層が得をし、貧困層がさらに割を食う等)。
しかしながら、ここに「公益」の出番があるのです。公益が国益を照射するのです。国益もまた公益を照射するのです。この相互照射によって、互いのなかに潜む利己と利他のバランスを絶妙化するしかないのです。
国民国家がインターネットとグローバリゼーションによって弱体化されても、また新帝国主義が跋扈しても、広い意味の安全保障(防衛・食糧・資源・エネルギー・環境・安全)は国民益(国民エゴではない)に則して進められるべきものです。
この論点を基軸にして「何が真の国益なのか」の議論も深めていかなければならないでしょう。
企業と個人の立ち位置
さて、ここで以上の文脈を踏まえ「企業」としても、国益・公益の双方に貢献しなければならないことが理解されます。前者への貢献はグローバル企業のあり方を、後者はマルチステークホルダーとのリレーションシップのあり方(要はCSRのことです)を問われることになるはずです。特に、「私企業益」と「CSR」は矛盾する関係ではないという論理展開が要請されることは言うまでもないでしょう。
これらの関係性を敷衍することによって、(企業の構成員である)「個人」は社員というプロフィールだけでなく、有権者・消費者・納税者・配偶者・親・子、そして市民といった多元的な価値観を有する(個人でありながら一つの)統合体として、公益や国益を論じ、それらを担う存在になることが可能となるのです。
ここまでのグローバリゼーションの結果は、世界を「市場」としては一体化しましたが、否、一体化したからこそ、その中での勝ち負けを強いています。負けた者は、その結果においては、全てが自己責任であるという弱肉強食の論理が貫かれています。
この論理は、ある強い国家(企業)群が彼らの国益(私益)追及として、推し進めたものですが、それらの国々でも、必然として格差は拡がっています。結局、それらの国の国益も国民益に連なっているとは言い難いのです(軍産複合体という言葉を持ち出すまでもないでしょう)。格差が拡がり続けることが、果たしてその国の国民益であると言い放てるのでしょうか。
グローバリズムが本当に、真の地球市民の幸福を実現できるのかどうかは分かりませんが、国益と国民益、さらに公益へと考えを展開していけば、地球規模での利己と利他のバランス(入れ子構造)の取り方を人類が初めて学習することにもなるでしょう。「地球益」から「地球市民益」へ、そして「地球規模での公益」へと論理を展開・発展させられるかどうかがカギですが、その発展の基礎は個々の国や企業や人々の足元にあります。
「公益」も「国益」もこの論理展開の基礎単位ではありながら、「公益」は「国益」を超越します。一国においても、世界規模においても超越するのです。
何故ならば、公益はアジェンダとしての設定の仕方によって、その意味する範囲を、社会階層的にも、地理的にも”拡大”していくからです。その”拡大”過程において、異なる地理(地域)間・異なる社会階層間の対立を、国際的にも緩和・超克していくことが期待されるのです。
その前提にあるのは、異国間・多国間の同一階層同士の連帯と絆の強化です。その連帯と絆は、やがて異なる階層間にも浸透していき、対立に発展しません。つまり、利己と利他の絶妙なバランスを実現した「公益」が国家も、階層も超越するのです。
地球レベルの視点
したがって、その”拡大”ステップの最終フレームは、当然のことながら、地球に帰結しますから、地球規模の「公益」は地政学の意味合いをも希薄化します。つまり、国家間・階層間の各種対立・相克・軋轢・緊張・紛争が、公益の名の下に、強制されることなく、調整・納得・相互理解によって、解決・解消されていくプロセスを導き出します。
「国益」と「公益」が相互照射せざるを得ないとしたのも、「公益」が「国益」を超越すると述べたのも、以上のようなメカニズムが発現・起動される可能性があるからなのです。
ところが、そうは言うものの現実問題としては、残念ながら、これまでの歴史を振り返ってみると、どうやら「国益」の集合体は「地球益」にまで止揚しそうもありません。
ただ、そうであるからこそ、公益発想の延長と浸透が、現時点おいて、極めて重要な視座になり得るのです。
さて、それでは「危機管理」はどうでしょうか。何のための危機管理なのかが一大焦点です。つまり、「国益に資する」、「国民益に資する」、「公益に資する」それぞれの「危機管理」が要請されるべきなかで、きちんとその「資する」べき目的に沿って、危機管理が実行・実現されているのかどうかの検討と検証が不可欠になってくるでしょう。
これは、単なる危機管理の機能や効果に矮小化された議論を超越しますが、それらの個々の議論を有機的に統合されたものでもあるのです。つまり、先の諸目的に「資する」危機管理の集合体が、地球規模にまでカバレッジされることが期待されるのです。
一企業(あるいは一国)の危機管理(の計画と遂行)が、地球益(含.自然環境・食糧資源・エネルギー資源・多様な文化の共存・平和など)を毀損する方向に作用するとき、それは最早「危機管理」と呼ぶには相応しくないのです。
そこで、危機管理を「グローバリゼーション」との関係でリセットすれば、これまでも、その「正」の側面と「負」の側面のどちらか一方だけを強調しがちであるとの指摘に繋がります。それはその通りでしょう。ただ、実際には、「正」「負」どちらの側面の方が大きいのかが問題なのです。
同時に、今後、どちらの側面がより増大していくのかが、さらに重要な課題になっていきます。何故なら、どちらが増大するにせよ、個々人の振る舞い方や、企業と国のグローバル危機管理のあり様は、「公益」を踏まえた上でしか形成されません。また、それが形成されるからこそ、どちらの側面の増大局面にも対応可能となり得るのです。
冒頭に、「自社益が、社会とのバランスの上に考慮すべきものである以上、国益や公益を古臭い固定的な観念であると帰してしまえない」旨のことを記しましたが、ここでいう「”社会”とは、自国内の社会のみならず、”国際社会”も当然視野に入ります。
多様な国際社会とのバランスを取らずして、また、地球規模の「公益」を踏まえずして、グローバル危機管理は(実はローカル危機管理も)実現しないのです。