SPNの眼

2013年の回顧と2014年の展望(2014.1)

2014.01.08
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これまでの回顧と展望

 筆者は、本コラム(「SPNの眼」)及び旧コンテンツ(「危機管理講座」)で、年末年始の執筆を担当する機会が多い。2009年の1月と2月には『歴史的大転換に立つ世界経済~危機管理は軸をぶらさず原点回帰へ~』と題して(上)と(下)、2011年1月には『2011年展望』を、同年12月には『2011年を振り返って』、さらに、翌2012年1月に『2012年展望』、昨年1月には『2013年の展望と課題~政治、経済、そして企業~』を掲載させて頂いた。そして、本年もまた年頭に当たり『2013年の回顧と20114年の展望』を書き記すこととなった。

 別に年末年始以外のタイミングでの執筆と比べて、気持ちの上で大きな違いがあるわけでもないのだが、どうしても”一年の締め括り”や、”新年に当たっての展望”となると、若干肩に力が入る。そこで、今回は、少々肩の力を抜いてみたい。

 ただ、アベノミクスの評価は一旦措くとして、今年が例年と比べて明るい見通しであるかというと決してそうではない。むしろ、状況はより悪化しているのではないかとさえ思えるのである。以下、その懸念事項を危機管理に絡めて論じていきたい。

 まず、上掲したこれまでのコラムを読み返してみると、残念ながら、共通した言い回しに再会することになる。即ち、「今年(昨年)も多くの企業不祥事が頻発した」というデジャヴのように繰り返される事実への再認である。もちろん、この間にも(事実としてはそれ以前からも)不祥事発生要因の除去と不健全な経営状況の改善を急ぐように、法制度・経営管理・手法ツール等各方面・各段階からも多くの危機管理諸論(コンプライアンス、コーポレート・ガバナンス、内部統制、内部通報制度等々)が紹介され、導入されてきた経緯があるのは周知の通りである。

不祥事発生と危機管理論の五つの関係

 しかしながら、結果として、それらが十分機能することはなかった。結論を急ぐと、そうであるならば、今後とも機能しないのではないかとの疑念さえ生じる。何故か―。

 これには複層する幾つかの要因が考えられる。まず、一つ目は、法制度を整備しても網に引っ掛からない抜け穴や、罰則も含めた法の効力が及ばない、あるいは効力が弱まる範囲・場というものがどうしても存在することである。その”場”とは、業種・業界であったり、業態であったり、また一組織であったり、はたまた特定部門であったり、個人であったりもする。いわば、多様な形態で社会にその”場”が存在している。

 特に、反社会的勢力と親和性の高い業界では、イタチごっこやモグラ叩きの様相を呈する。”(法の)網に引っ掛からない抜け穴”を指南するコンサルタントも少なからず存在するのである。これらは、従業員の雇用形態や労働環境に関係なく、明らかにブラック企業といえる。

 また、一般の消費者が被害者になることも多いことから、これらのケースでは企業関連法制よりも、きっちりとした刑法での適用を強化すべき筋合いの話である。ただ、消費者側にも”上手い話に迂闊に乗らない”、ただ”騙された”という結果に陥らないように、リスクへの十分な留意とそれを引き受ける覚悟、そして、何よりも反省が必要である。

 近年の詐欺的商法の被害実態には、消費者側の”脇の甘さ”が目立つのも事実だからである。

 また、反市場勢力による企業乗っ取りに関しては、この”脇の甘さ”は、旧経営陣に移転する。そもそも杜撰な経営実態や粉飾・糊塗された経理状況を招来させてしまった経営責任というものが前提として存在する。これは動かしがたい事実である。

 一時でも健全経営を推進・実現していた企業であるならば、”流行りへの迅速な対応”を迫られるというプレッシャーがあるにせよ、先に挙げた危機管理諸論に基づいた制度(組織やルール)設計にすでに着手していたはずである。実は、そこに不祥事発生企業の共通した一つの陥穽が見い出せる。つまり、”はずである”から、制度設計も完成した”つもりになってしまう”のである。

 これが、”場”に続く二つ目の要因となる”心理”である。この心理には、焦りや動機、思い違いや思い込み・錯誤といった観念も含まれ、それぞれの”場”において発芽するのであるが、”場”を越えても、つまりは”法の効力が十分に及ぶ範囲”であっても、難なく姿を現すことができるという特性を持つ。何故ならば、慢心や高を括るといった姿勢から来るものだからである。

 さて、この”つもりになってしまう”という甘い判断や状況認識、あるいは事実誤認・実態未把握に対して、「時代状況」という”流行り”に急かされた面が影響してくるのは否定しがたいところである。それが、次の局面では、安易で軽々な開示姿勢となって現出してくる。

 結果的には、設計された制度自体が中途半端であったり、不備があったり、または外観だけを取り繕ったものであるにも関わらず、まるで目的を成し遂げたかのように、社内で確実に実践され、組織全体に浸透・定着しているかのように自社サイトを含めて、取り組みの成果を喧伝してしまうのは、開示パフォーマンス自体もまた、”流行り”に急かされているためである。実際に、不祥事を起こしてしまった企業が発覚後も、「コンプライアンスポリシー」や「ガバナンス方針」などを平然と掲載し続けているのは滑稽以外の何ものでもなかろう。

 先の危機管理諸論が、先行した他の概念を補完するかのように登場してくるのは、それなりの事情があった。つまりは、新たに発生する不祥事が先行した概念だけでは防ぎ切れなかったとの事実の上に立っている。

 しかしながら、それでも毎年毎年、企業不祥事が繰り返されるのは何故か。新しい概念やツールが十分に補完の機能を果たしていないからだと言ってしまえばそれまでだが、そうなると元々の理論や概念が不備であったり、不完全であったということを意味してしまう。そればかりか、新たな概念もまた補完の用をなさないのであれば、不備・不完全を自ら証明しているようなものであり、半永久的に、常時、新概念の登場を俟たねばならなくなる。少なくとも、そのような姿勢・態度を醸成するのは間違いない。

 それ故、”流行りに急かされる”のである。形だけ取り繕うのである。こうなれば、先行して取り入れた概念や制度の有効性の検証や改善点の検討、さらには他社の不祥事事例の研究なども蔑ろにされる。これでは(新)制度の形骸化が当初からプログラミングされているようなものである。この状況は、危機管理諸論や用語が、せいぜい「危機管理」と「リスクマネジメント」の二つしかなかったときから、ほとんど変わっていないのである。

 この二つとて、継続的に取り組んでいかなければならない課題であるし、「危機管理」も「リスクマネジメント」も「経営」そのものであるから、改善や工夫を加えながら、本来は経営に取り込まれるべき関係にある。

 しかしながら、「経営」と「危機管理」は別立てのもののように並列し、融合・合体することなく(「経営」側が、つまりは人が「そぐわない」などの理由を付けて、拒絶している面が多分にある)、一方で、「危機管理」側は関連する諸論諸説・用語を細胞分裂の如く多様化(近似概念・用語の乱発)してきたわけである。

 先行概念の有効性の実践的・実務的検証が不十分であったということでいえば、それ以前の監査役制度や会計監査、さらには、取締役会や株主総会にまで遡ることができる。これらの積極的運用・活用あるいは運営というものが本当になされてきただろうか。

 むしろ、逆に形式的な運営によって、それらの役割を形骸化し、骨抜きにしてきたとは言えまいか。

 昔と今とでは企業総数に大きな違いがあるとはいえ、不祥事の発生件数はそれほど大きく変わっていないのではないかとの指摘がある。マスメディアの発達やインターネットの普及、さらには内部告発の増加等により、分母の発生件数に占める、分子の発覚件数が増え、その占める割合が大きくなったとの見方である。おそらく、事実は分母も分子も増加しているのであろう。いずれにしても、しっかりした制度を整備した”はずであり”、すっかりその”つもりでいた”状況は直近のことではなく、かなり以前から続いていたと見るべきなのである。

 実際問題として厄介なのは、この”はず”と”つもり”の中には、”先送り”や”不作為”と言われるリスクが無意識的に溶解していることである。

 この溶解している池には、リスクセンスは電導しない。ただ不祥事として発覚したときに、溶解していたリスクが結晶のように析出するのである。また、この無意識性はときとして、意識に転換することもあるが、それは”見て見ぬ振りをする”態度として、外見上は見え隠れするだけである(それ故、”場”を選ばず、”場”を超えるのである)。

 二つ目の要因が”心理”たる所以は、この無意識性が深層心理に沈澱しているためである。これをあえて日本特性、あるいは日本企業特性、すなわち、日本人特性と呼ぶこともできよう。”先送り”や”不作為”が暗黙にも合意され、含意された集団は、当然のことながら”ムラ化”することが避けられない。強固な岩盤のような”ムラ”の前では、危機管理諸論は無力化するが、何故か、というより必然的に”流行り”の装飾だけは取り入れてしまうのである。

 さて、三つ目の要因は、危機管理諸論の技術論・手法論としての限界についてである。

 これは、二つ目の中で論じたものとかなり重複する部分もありながら、また全く正反対のことを述べることにもなる。二つ目の中で触れた”限界”は危機管理諸論そのものに対する”心理”的抵抗のためであった。ここで強調したいのは”手法”としての限界である。

 危機管理諸論の一つひとつは、より洗練された手法として提示されてきてはいる。しかし、個別に洗練されればされるほど「経営」との一体感が喪失されていく。しかも、個々の手法が屋上屋を架すパーツも少なくなく、また年を追ってバラバラに登場してくるので、危機管理論としての統一感に欠ける。ERMにしても同様である。

 ただでさえ、統一感に欠けている上に、先にも述べたように「危機管理」も「リスクマネジメント」も「経営」そのものであるのに、別立てのもののように融合・合体することなく並列しているのであるから、心理面に関係することなく、”手法”としての限界を露呈するのは無理もない面がある。それでも、新手法・新概念はマスコミを引き込み、関係筋から強く推奨されるので、またもや”流行り”から急かされ、生半可な状態で、形式的な導入を繰り返すという悪循環に陥るのである。”危機管理の危機”など笑い話にもならない。

 次に、四つ目の要因であるが、これは”手法が洗練され”、さらに”先鋭化”することによって生じるところの矛盾である。コンプライアンスの強化や社内ルール・制度の厳格化により、枝葉末節に拘り、思考停止状態に陥る罠ともいえる。これは組織の官僚化とも呼ぶべき現象で、経営のダイナミズムや柔軟性、さらには社員の創意工夫・リスクテイキングなチャレンジャー精神などを剥奪していく。極端な場合、「あれもダメ、これもダメ」といった自縄自縛状態に陥る。そこには、独創的な発想など生まれる余裕はなく、ただ、不平・不満だけが雪だるま式に鬱積していく。

 かくて、リスク管理強化方針の一環が、新たなリスクを生む土壌をも育成してしまうという、本末転倒な事態を招来する。そこで、また新たなリスク管理策が弥縫策の如く、取り入れられれば、理想的な悪循環を実現する。これを断ち切るには、経営者の発想の転換が必要である。つまり、原因→結果→原因→結果・・・を繰り返す長期的な現象の継続性に対する理解が肝要なのである。新たな施策の導入が、あらゆる局面でどのような影響をもたらすのか、それは根本の問題解決に有効なのか、単に時流に乗っただけでなく問題の本質を捉えているのか、との深い洞察に加え、もともと自社の社会的使命は何だったのか、という原点回帰への自問自答を絶えず忘れてはならない。

 最後に、五つ目の要因である。それは、人間的宿痾とも呼ぶべき”保身”である。”問題のすり替え”とも密接に関係するが、こちらはあくまで手段であって、目的はまさに”保身”の方である。現在は、どの業界のどの企業でも、激烈な競争環境の下に置かれている。

 しかも、それはグローバルレベルでの競争環境である。独自のビジネスモデルが一時、成功したとしても、それがいつまでも続く保証などどこにもない。ましてや、M&Aの対象になる可能性もあるし、思いもかけぬ新技術の登場で自社モデルがあっという間に、陳腐化するリスクにも晒されている。

 そのような状況のなかでの企業の危機管理として、最優先されるのは、生き残りということになる。生き残りということになると、そのためには何をやっても良いのかという問題が浮上してくる。例えば、トップが自社の生き残りのために身を引くのか、大幅なリストラを断行するのか、それとも身売りをするのか、幾つかの選択肢がある。当然、経営責任とも絡んでくる話であるが、組織の生き残りなのか、己の生き残りなのか、よく分らないような状態が最悪のパターンである。

 有効な危機管理施策の未着手や長期に亘るリスクセンスの喪失なども含めた、経営課題の先送りが主たる原因であるにも関わらず、”問題をすり替え”、責任を全うせず、”保身”を図る。この場合は、この時点ですでに企業不祥事を十分に形成しているのである。

 もちろん、リストラ自体が直接不祥事につながるわけではないが、これを実行すれば、誰かを、あるいは何かを犠牲にしていることは明らかである。

 仮に、他社と戦略的アライアンスを組んだとしても、これらの犠牲の上に成り立つ関係や形式を、巷間言われるところのウィンウィンの関係であると、無邪気に喜んでいる場合ではない。ウィンウィンの背景には、当然ルーズルーズの膨大な存在がある。その両者の比率が2:8とか1:9などとなれば、社会的格差はますます開き、CSR活動どころではなくなる。その社会は不安定化し、やがて崩壊するだろう。

 崩壊した社会におけるビジネスの勝利者とは一体誰のことを指すのだろうか。そして、その勝利に何の意味があるのだろうか。危機管理諸論は、そのような社会を到来させるためにあるのでは決してないのである。

保持すべき姿勢

 話が大分拡がってしまったが、不祥事発生とその対策としての危機管理諸論の関係を、五つに分けて論じてきた。すなわち、”場”の問題、”心理”の問題、”手法・技術論の限界”の問題、”手法先鋭化の矛盾”の問題、そして”保身”の問題である。

 危機管理諸論については、その限界を熟知した上で、決してその応用や適用を間違わないような細心にして、最大の留意・考慮が必要である。

 これに対しては、優れてリーダーシップの問題を包摂するが、むしろ、個人に帰するだけでなく、組織の智恵として、継承すべき性質のものである。

 経営者とは聖人君子のことではないし、またそれが経営学的に期待されているわけではないだろう。しかし、トップの影響力は絶大である。自らを戒め、部下の声に真摯に耳を傾ける謙虚さが、何よりも重要であることは、これからも変わらない。この姿勢の堅持の後には、必ず社員からの尊敬と有能なスタッフによる助言が付いてくるはずである。

 さて、今回のタイトルを『2013年の回顧と2014年の展望』としたが、ここまで述べてきて、お分かり頂けるように、実際の内容は『2013年以前の回顧と2014年以降の展望』ということになってしまう。冒頭に、過去のコラムを紹介したのは、実はすでに提起されていた長期的な、あるいは慢性的な課題が、何も手付かずにとまでは言わないが、なかなか有効な対策が講じられないままで、状況が推移してきていることを確認するためでもあった。それに対して、一危機管理マンとしても強い危機感を抱かざるを得ない。

 ただ単なる、ひたすらの利便性追求、徹底した合理化・効率化・コストダウンの行き着く先は、多くの負け人・多くの不幸せ人に溢れる社会を招来するだろう。それは活力とも、成熟とも形容できない状態であり、まさに社会全体の崩壊をも招きかねないほど深刻な事態となる。果たして、私たちは社会の危機管理を遂行できるのだろうか。

 一時の成功体験の自己陶酔からは、早く覚醒する必要がある。他者の犠牲や不幸を前提とした成功は、長続きはしない。いつ、自分が犠牲者側に回るか分らないシステムのなかに、すでに私たちは生きることを余儀なくされているのである。そのような自覚がなければ、その成功プロセスにおいて導入された危機管理論や施策の目的は、いずれ保身に変容せざるを得ないのである。

 年頭に当たって、リストラや雇用形態の変更やM&A、さらには国際展開を図る際には、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや」(親鸞)の深遠な意味を咀嚼してみるのはいかがだろうか。先述した比率が0:10になる前に。

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