SPNの眼
1.今回のSPNの眼の執筆にあたって~問題意識
昨年1月に発行した「SPN JOURNAL Vol.1(創刊号)」の巻末にある「総研 Business Topics」において、私は、「コンプライアンスと危機管理の概念の融合に向けて」と題したコラムを担当させていただいた。
その中で、私は、
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- (100年以上続く)老舗企業が社会から信頼を得るために行う「地域社会との対話・交流」はまさにリスクコミュニケーションであり、「自社の『暖簾』に対する社会からの評価を真摯に受け止める謙虚な姿勢」はレピュテーション・リスクマネジメントに通じること、また、(社会への貢献を通じて利益が生まれるという家訓等に基づく)「企業行動の社会的適合性」はまさにコンプライアンスであること、そしてこれらが、老舗企業が激動の歴史を通じて証明してきた経営の「危機管理」指針であること
- 2013年以降、レピュテーション・リスクマネジメントとリスクコミュニケーションを組み込んだコンプライアンス体制を整備・構築していくことが、今後の企業「危機管理」の在り方として、必須の状況になる
と指摘した。
しかしながら、2013年もまた、企業不祥事が相次いだ。アルバイト等によるSNSへの不正投稿事案、反社会的勢力および共生者による提携ローンの利用及び当該事態をめぐるメガバンクの対応、ホテルの飲食店等における食材の誤(虚偽)表示・偽装案件、冷凍食品への高濃度の農薬混入事案などは、記憶に新しいところであろう。
従来から、企業不祥事が起こるたびに必ず出てくる単語が、「コンプライアンス」や「企業倫理」である。そのような風潮を象徴するかのように、企業不祥事を起した企業の再発防止対策には、まるで呪文のように「コンプライアンス体制の強化に努める」旨の記載が並んでいる。
「コンプライアンス」。既に言い古された言葉である。ビジネスマンであれば、それが「法令等遵守」の意味であることは、もはや誰もが知るところであろう。しかしながら、社会で「コンプラインス」の意味が何度も問いかけられながらも、依然として不祥事が減らない現状に鑑みると、改めて、企業不祥事発生のメカニズムやコンプライアンスのあり方について、今一度しっかりと検証しておく必要があるのではないか。
そこで、今回から2回にわたり、企業不祥事発生のメカニズムとそれに基づくコンプライアンスの意味(本質)について、再考してみたい。
2.企業不祥事発生のメカニズム~起こるべくして起こる企業不祥事
2000年以降、毎年1万件近い「不祥事」報道が、新聞紙上でなされているという話を聞いたことがある。ある放送作家によれば、雪印乳業の食中毒事件が発生した2000年は特に、テレビメディアにおいて、「視聴率」が強く意識され、視聴率の取れるセンセーショナルなテレビ番組のワイドショー化が一気に押し進められた年とのことである。企業不祥事を取り上げては消費者の耳目を当該企業に向け、それに合わせるかのように新聞でも追跡取材が加速する、そういう時代が、まさに2000年以降の社会情勢である。
そして、今日では、Twitterでのつぶやきから不祥事の「芽」(煽りや些細な情報を含む)が発信され、数時間のうちにその情報がインターネット上を駆け巡り、それらの情報を一覧化したまとめサイトが立ち上がり、マスコミやそれらの情報にも目を配りながら報道をするという形で、瞬時に広範囲で企業不祥事の情報が拡散してしまう。
場合によっては、事実関係が不確実な状況であるにも関わらず、犯人や原因の推定的断定や企業・当事者への誹謗中傷が行われたり、被害者の感情や当事者側の事情を斟酌することなく、一方的に吊るしあげて糾弾したり、本来公表すべきではない当事者や家族等の「個人情報」や写真まで晒したりと、お祭り騒ぎの状態となる。
不祥事を起こした企業はもちろんのこと、自ら平然と「コンプライアンス」を完全に無視しながら企業のコンプライアンスを糾弾したり、あるいは、当事者やその家族が生命を断つような事態にまで発展しても、それを茶化したりするネットユーザーもいることに鑑みれば、まさに社会全体のモラルや「コンプライアンス」意識、リテラシーが問われている時代であるといえる。
ところで、Wikipediaによると、「不祥事」とは、「一定の社会的な地位を持つ者または組織・団体が起した、社会の信頼を損なわせるような出来事・醜聞を指す。主にマスメディアで用いられる言葉」とされている。そして、「なお、不祥事とは元々は『あってはならない出来事』という意味である(”祥”はめでたいという意味である)。」とされている(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A5%A5%E4%BA%8B)。
この定義をみると、「違法」であることは必ずしも要件となっていない。つまり、違法(法令違反も含む。以下、同じ。)でなくても不祥事になりうるということであり、「不祥事」という言葉は、実は非常に曖昧なものという見方も成り立つ。現に、先般発生した食材の虚偽表示案件についても、違法(法令違反)の事実が認められない事案も少なくないが、これらも、いずれも「不祥事」の括りで論じられている。
そこで、まずは、この定義を元に企業不祥事の発生のメカニズムについて考え見よう。改めて整理すると、「不祥事」とは、【主体】は「社会的な立場を持つ者または組織・団体」であり、【行為】は「社会の信頼を損ねるような、あってはならない行為」であった。ここから、2つのことが導かれる。
一つ目は、【主体】に書かれているように、至極当然の事理ではあるが、「人(又はその集合体である組織)」が起すものであるということである。
ヒューマンエラーの例を挙げるまでもなく、「人」は誰でもミスや間違いを起す。まして、やり方の決められた単純作業ならいざ知らず、高度に「判断」の求められるような、人により幅のある場合については、結果的に「ミス」や「間違い」とされる可能性は高まる。
また、組織は、複数の「人」(集団)から成り立つ以上、ヒューマンエラーの発生確率は一人の場合より格段に高まる上、派閥争いや利害対立・出世競争等に代表される「人」と「人」との軋轢による対立や事案は不可避である。
さらに、組織である以上、そこに上下関係が必然的に生じてくる。上下のしきたりや指示・命令、統制・指揮に代表される上下間でのパワーバランスにより個々人の行動準則や判断基準が影響を受け、問題はより複雑になってくることが、組織内での内在的な要素であるということもできる。
つまり、もともとミスが不可避である一人の人間が複数集まり、そこに更に上下の序列ができることで、単に一つのヒューマンエラーからは起こりえないような事象が、発生してくることになる。人がもつ不確実性と組織的要因(複数化、上下関係)などが相互に関連・反発し合って、それが企業不祥事に発展していくという構図である。
「人」や「組織」に絡む要素は、このような複数化・序列化のほか、担当者等の個人としての行動におけるバイアスも挙げられる。具体的には、自分(達)がやっていることの「正当化」(これは組織内での自己のステイタスを確保するための安全・承認欲求に基づく)や責任回避・転嫁に代表される「自己防衛意識」、好き嫌いによる「コミュニケーション不全(拒否)」等が、「人」の複数化・序列化の中で複雑に増幅され、大きな歪みを生みだす可能性は否定できない。集団による意思決定では、極端に振れたり(リスキーシフト)、無責任性が助長される等の心理学的な知見もまさにこのような歪みの象徴と言えるであろう。
言い換えれば、人がいて、組織がある以上、不祥事は必然的に「起こりうるもの」ということができるのである(内在的リスク要因)。
二つ目は、不祥事の定義の中でも用いられている「社会の信頼」という指標(外在的リスク要因)である。
「社会の信頼」を指標とする以上、社会動向により、不祥事になったりならなかったりすることを意味しているから、そもそもが「社会の変化」の影響を受ける不確実性の高いものと言えるのである。そして、その「社会の変化」を正しく認識できず、あるいはそれに適切に対応できないという、「社会の認識とのギャップ」が発生する可能性が当然に存在しているのである。
しかも、社会の動向は、社会心理学や集団心理学でも論じられている種々のバイアス、例えば、集団愚考(個々人の無責任化や意識の低下)や群集心理等の影響を受けて大きく揺れたり、社会通念が定まらない場合も少なくない。このような状況下では、「社会の信頼」という評価軸によるリスクは、更に大きくしかも予見不可能な状況になることに留意しなければならない。
最近のテレビCM自粛や政治の動きを見ても、様々な意見が氾濫しており、どのような行動が社会からの信頼獲得につながるのか、もっといえば、インターネット上に現れた声、電話で寄せられた声、報道された内容だけが社会の動向なのか、そこにプロパガンダや様々な利害による世論誘導、無責任な意見等が混在していることをどのように考えるのか等、社会通念を前提とする以上、様々なバイアスによるブレがありうることを前提とせざるをえない。
このような自分達(組織)内部の問題と自分の周り(外部)の問題が複雑に絡みあい、相互に影響しながら、「あってはならない出来事」、すなわち「不祥事」に発展していくというのが実は企業や組織における不祥事発生の構図なのである。
逆にいうと、特段の手立て(リスク対策)を打たなければ(=不作為)、企業不祥事は必然的に起こるということができるのである。したがって、何かの手立てをしても発生の可能性を無くすことはできないにしても、そのリスクを低減させる努力をした(作為)かしなかった(不作為)かによって、企業の体質が大きく問われることになる。
企業不祥事は必然的に発生するものという前提に立ちながら、何が出来るか、それこそが企業不祥事発生リスクに対する危機管理ということができるのであり、何もしないという不作為は、組織として、企業不祥事発生リスクに対する危機管理が全くできてないと評価せざるを得ない。だからこそ、「やるべきことをやらなかった」ことが企業不祥事になるのである。
3.「コンプライアンス」とは、どういうことなのか~改めて整理する
ところで、「人」起因リスクやその複数化・序列化(組織特性)に対する手立てとして、「内部統制」という考え方によりそのリスクの低減が図られる一方、「社会の信頼」という指標はコンプライアンスという概念で整理される。
そして、「人」起因リスクへの対応は、「社会からの信頼」を得るために不可欠の要素であることから、内部統制の重要な目的として、「社会」を前提とする「コンプライアンス」という要素が加えられるというのが、企業不祥事発生リスクを低減させるための危機管理の考え方とされている(いわゆるリスク管理体制論)。
言い換えると、「人」や「組織」は「社会」を前提とした実在である以上、そこには「社会からの信頼獲得」というコンプライアンスの行動準則を当然に備え、それに基づく判断・行動を徹底していく必要があると言えることから、この「コンプライアンス」というものの意味や本質が問題となる。
なお、既に示唆したように、コンプライアンスは、組織や企業のみに限定されるものではなく、社会人として一人ひとりが考えていかなければならない課題であることは言うまでもない。
そこで、次に「コンプライアンス」の意味について考えてみたい。既にご承知のように、コンプライアンスは従来、「法令遵守」と訳され、その後、倫理等も含めた「法令等遵守」に拡大された。そして、さらに今日では、社会との接触を前提とした「社会的適合性」「社会的要請への適合性」という意味まで含むものと解されている。
私は、以前、当社会員向けに会員専用サイトにおいて掲載されていた危機管理講座に、3回に渡ってコンプライアンスの概念の変遷と考え方について寄稿した。当時の原稿の一部を引用しながら、「コンプライアンス」の意味、本質について考えてみたい。
(1)「コンプライアンス」の原義とその実質的意義
「制限速度50km/h(以下、km/h=km)の国道で車を運転している。全体の車の流れは60kmで流れている。教習所では車の流れに合わせて運転するように指導された。(現実にこのような指導をする教習所もあるようだ)」。この時、皆さんは、50km、 60kmどちらで運転するだろうか。
「法令遵守」という観点から考えた場合、50kmで走ることが正解となるだろうが、現実的に考えた場合、60km(車の流れにしたがって)で走る方も相当数いるのではないだろうか。
「コンプライアンス」の本質について、畑村洋太郎東京大学名誉教授が「季刊コーポレートコンプライアンス第一号」(コンプライアンス・コミュニケーションズ株式会社)(2004)の巻頭の挨拶(「Corporate Compliance」創刊によせて「コンプライアンスということば」)で的確に表現している。その内容を要約・引用すると、
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- 「コンプライアンス」という言葉は、工学では「”柔らかさ” “柔軟性”」を表し、「一定の力を加えたときにどれだけの変形が起こるかを表(す)」指標である。
- この意味から(企業経営における)「コンプライアンス」という言葉を考えると、「何らかの物や人がどの程度柔軟に、そして、感度良く外からの要求や規範に応じた動きをするのか」という意味になる。
- 「外部の要求に柔軟に応じた動きをすることは、社会的に見れば法律に正しく従うという現象となって現れてくるため、コンプライアンスが “遵法精神” または “法令遵守” という言葉で表される」ことになる。
としている。
社会の要請や消費者(利用者)の期待・ニーズは法律で具体化されているから、法律に柔軟に弾力的に対応することが、つまり、法律の文言にとらわれるのではなく、法が保護しようとしている利益(保護法益)や立法趣旨、制定理由に遡って発想し、それを考慮に入れた上で合理的で常識的に考えて妥当な対応をすること、が原義を踏まえた「コンプライアンス」の意味と解釈できる。
この点を先ほどの問題に戻って考えてみたい。50kmという制限速度は、道路幅や道路構造、交通量等の様々な要素を加味して事故が一番少なく円滑な運転ができると国が判断したものである。その最大の目的は交通事故の防止にある。一方、車の流れに乗る(この場合は60km)という教習所の指導は、ドライバー心理の観点から、一番事故が起こりにくいという判断から行われていると考えられる。前に遅い車があれば追い越しをかけたり、割り込んだりするため、事故の可能性が高まる。したがって、一台だけ遅いのは好ましくなく、前後の車の流れに乗って運転するという教習所の指導は、運転者の心理を考えれば理にかなっているともいえる。ここでも配慮されているのは、交通事故の防止である。
車の運転という局面で社会的に要請されているのは、交通安全、つまり交通事故の防止でることは自明の理である以上、流れに沿って60kmで走ることもコンプライアンスの観点からは一概に間違いとも言い切れない。
ただ、違法行為を奨励しているわけではないことに注意が必要である。60kmで走れば、速度超過とされるリスクがある。形式的には、道路交通法違反であることは間違いなく、「法的リスク」として認識しておかなければならない。重要なのは、「法令遵守」という名のもとに形式的なコンプライアンスを推進し、ルールや決まりを盲目的に受け入れるのではなく、ルールや決まりの裏にある利益・理由をきちんと考え、その時々の状況に合わせて合理的な行動を取るという発想をしなければいけないということである。これこそが社会的要請への適合性を踏まえコンプライアンスの行動準則といえる。
(2)なぜ、「コンプライアンス」の意味をそのように解すべきなのか
なぜ、「法令遵守」という名のもとに形式的なコンプライアンスを推進し、ルールや決まりを盲目的に受け入れるのではなく、ルールや決まりの裏にある利益・理由をきちんと考え、その時々の状況に合わせて合理的な行動を取るという発想をしなければいけないのか。それは、「これを守ってやっている」という「法令遵守お題目型」や「これさえ守ればいい」という「法令遵守偏重型」コンプライアンスでは、法令やルール・マニュアル自体を守ることが目的となってしまうからである。「法令等遵守」を重んじた場合、そこで目が向いているのは、「法令等(社内規則も含む)」にどのように描かれているかであって、その時々の状況やその状況下で求められる社会的要請ではない。
「コンプライアンスは営業の足かせ」「コンプライアンスは分かるけど、そんなこと言っていたら売上は上がらない」という声を聞くことがあるが、そこで重視されるのは、目の前の現実ではなく、「条文」「基準」「規則」「ルール」である。本来は、目の前の状況をどのように理解し、社会的な諸々の利害を調整して妥当な対応(方針)を考えるという局面であるにも関わらず、「字句」を振りかざす「法令遵守お題目型」コンプライアンスが社内で蔓延してしまう。「法令遵守お題目型」コンプライアンスは、ルールだから守れと有無を言わさず型にはめようとし、その「ルール」(規範)が不合理・非効率なものでもそれを押し付けようとしてしまう。これが、形式論重視のコンプライアンスの怖さであり、「法令遵守お題目型」コンプライアンス論の限界なのである。
もちろん、人の命が絡む場合など、絶対にその基準やルールを守らなければいけない局面もある。その意味では、ルールだから守れと有無を言わさず型にはめようとすることは誤りではない。しかし、絶対に基準やルールを守らなければいけない局面では、まさにその状況における社会的要請やそれを踏まえた判断基準は、そこで定められた「基準」や「ルール」とほぼ同様になるから、合理的判断に基づき行動する限り、大きな問題は起こらない。社会的要請と「基準」「ルール」で求められる行動が大きく異なる場合に、法令遵守お題目型コンプライアンスの弊害が顕在化することになる。これがいわゆる「マニュアル主義」の弊害であり、組織は社会や消費者の期待に応えて企業価値を向上させるという大きな目標を見失い、独善的な企業体質につながっていく結果を生むことになっていくのである。
(3)基準やルールの在り方、運用の仕方
このように考えてくると、ルールやマニュアルは、組織として合理的かつ常識的に考えて、可能な限り、社会の要請や社会的使命・消費者の期待に応えるためにはどうするべきか、という観点から作成することが肝要となる。
そして、ルールを具体化した規程やマニュアルの運用についても、それぞれの場面で、社会的要請やニーズを踏まえて状況に応じて柔軟に「解釈」「対応」し、適宜時々の情勢に合わせて、規程やマニュアルを「見直し」「改善」していくことが重要となる。
一度確定したルールや基準、マニュアルを固定化して、いつまでもそれに縛られてはならない。一度確定したルールや基準、マニュアルを固定化して、いつまでもそれに縛られてしまうこと(=時々の社会情勢に合わせてその内容を見直さないという意味において「不作為」にあたる)は、それこそコンプライアンス違反や企業不祥事を誘発しかねない点に注意しなければならない。