SPNの眼
1.昨今の企業不祥事や事故・事件等の検証~個人の犯罪か企業不祥事か~
昨今の危機管理的トピックスとして、各種の企業不祥事が取り上げられるが、これらは幾つかの類型に分類することができる。例えば、委託先管理の脆弱性に起因する問題(ベネッセ個人情報漏えい、マクドナルド中国鶏肉問題など)、次に、業務のブラックボックス化や属人的業務への牽制不在による問題(伊藤忠元社員による横領事件、三菱製鋼元社員による横領事件など)、さらに、労務管理上の問題から発生した不祥事(アクリフーズ農薬混入事件、JR北海道など)などである。
いずれも、発生事態プロセスを遡及していけば、個人の犯罪に帰着することは紛れもない事実ではあるが、さりとて企業の責任は免れ得るのであろうか。社会の要請は、それらが個人の犯罪で済まされているところで止まっただろうか。
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各事案についての報道等からの情報をまとめて考えてみると、まず、委託先管理の脆弱性については、以前から指摘される事案が多くあったにも関わらず、対岸の火事という意識がなかったか、または、性善説を都合よく解釈していなかっただろうか。
それらが、組織としてのリスクセンスを麻痺させ、「自社でも起こり得ること」として、自社の管理体制の再検証の着手が徹底されず、疎かになっていたのではないだろうか。
次に、業務のブラックボックス化・属人的業務への牽制不在についても、同様のことが言える。例えば、過去に発生したものの、表面化することなく収束(含.自然消滅)した若干の危機(ミドルクライシス)に対する検証は行われたのだろうか。
”表面化することなく収束”したということは、ある意味では、幸運であった、幸運でしかなかったとも言えるのである。若干の危機であっても、発生した以上は、それまでの業務監査の有効性の再検証や、ルーティン業務に潜むリスクの再抽出、あるいは、硬直化した人事政策に人的流動性を考慮した対応などが経営方針として実施されていたであろうか。
さらに、不祥事と労務管理上の問題から発生した不祥事についても、日頃から業務や待遇等に対しての従業員(含.非正規・子会社)の不満の声をヒアリングしたり、逆に、不審な行動などを監視するなどの現状把握とそれに対する対応・対策を適正に実行に移していただろうか。
もちろん、当該企業サイドが、何ら対策を採ることがなかったというわけではないが、実効性が不足しているのである。それは何故かと言うと、問題か発生する可能性・蓋然性があると判断されるにも関わらず、事態や状況を放置していたり、または、「これくらいは大丈夫だろう」といった甘い認識のためリスクセンスが麻痺し、放置に至る「不作為」という組織責任の放棄により、「問題は発生したのだ」と社会は捉えるのである。
このような多くのステークホルダーに影響を及ぼすような事案を発生させるまで、企業側は、一体何をしてきたのか、具体的にどのような対応・対策を取ってきたのか、あるいは、取るべきだったのではないか、との厳しい指摘・指弾を社会から受けるのである。
それでは、結果的に企業不祥事として捉えられてしまう、当初の個人による人的不正等への対応・対策はどのように行われるべきだったのだろうか。
その参考になるのが、1950年代に米国人組織犯罪研究者であるドナルトR・クレッシーが体系化した「不正のトライアングル」という有名な仮説である。同仮説は、「機会」(不正行為の実行を可能ないし容易にする客観的環境)、「動機」(不正行為を実行することを欲する主観的事情)、「正当化」(不正行為の実行を積極的に是認しようとする主観的事情)の三つが関係・充足して不正を実行するとしている。
もちろん、不正が出来る機会があるからといって、全ての人が不正を実行するわけではなく、動機が先か、機会が先か、それとも動機の先に正当化がある場合など、様々なケースがあるであろう。これら三つの連結を阻止するためには、個々の三つの要因ごとの対策として、「物理的にできない」「やると見つかる」「割に合わない」「その気にさせない」「言い訳を許さない」などの方法論が考えられる。前記したアクリフーズ農薬混入事案を例に考えてみると、日頃から、自分の雇用条件等についての愚痴や不満を企業側に訴えていた「動機」を持った元派遣社員が、本来立ち入ることができないはずである別の生産ライン等に自由に出入り出来る状況下という「機会」を目の前にして、「処遇改善対応をしない会社が悪いという正当化」のもとに、農薬を混入したものと思われる。
本来のフードディフェンスの目的が、ルーティン業務の形骸化という霧のなかに消え、この元派遣社員の訴えを放置したことによって、本人のなかで、”不正の正当化”が完成し、事件が発生したと考えられる。
もし本人の訴えに企業側が何らかの形で対応を行い(動機と正当化の根拠の未成立)つつ、業務環境と行動監視を再チェックし、フードディフェンスのレベルを是正・向上(機会の減少)し、社内規則に則った処分等を行っていれば、本件は未然に防げたのではないかとも思われる。
その他にも、食品企業として、フードテロの未然防止の観点から、当然なすべきこととして、普段から「割に合わない」「その気にさせない」等のために社員・従業員等に対する危機管理意識向上に資する教育研修等の実施は必要不可欠であり、これらを実施していない企業に対して、社会は個人の犯罪に留めず「企業の不祥事」と評してしまうのである。
2.ダイバーシティ(多様性)化への対応
少子高齢化の到来により、今後、より一層企業の人材構成に多様性をもたらすことは避けられない状況である。具体的には、定年制の見直しによる高齢者の再雇用、外国人労働者の活用など企業組織を構成する人材は多様化していく。
日本人だけでも、コミュケーションが苦手の新人社員、キャリアアップに成功した幹部社員、キャリアクラッシュしている中堅社員、定年後にキャリア転換を上手く行えない再雇用社員、派遣・契約社員、パート・アルバイトと人材構成が多様化し、その上、習慣・思考等が異なる外国人が企業内組織に入り込んでくる。
そのような状況のなかで、従来、企業は顧客開拓のために、顧客の多様化に対して注力してきたように、今後は、社内の組織構成、「人」の多様化に対しても注力していく必要に迫られる。2015年には、労働安全衛生法の改正により、50人以上の社員を有する企業は、メンタルヘルスケア体制を構築(ストレスチエックと面談指導の実施等)しなければならなくなるなど、従来のいわゆる法規制を中心とした労務コンプラでは不十分であり、各種ハラスメント、メンタルケア等重視の方向性にシフトしていくことになる。社員等からの訴訟案件においても、各種ハラスメントによる精神的不調が争点となるケースが増加しており、増々多様化する人材が感じるハラスメントリスクも多様化することが想定されるため、その対策も待ったなしである。
そのためには、内部通報制度の導入や活用状況の検証・見直し、継続的な危機管理研修等の実施によるダイバーシティ受容の意識の醸成とリスクセンスの底上げ等を実施して、組織内にある人的ミドルクライシス要因の発見と対策が急がれる。
内部統制システムの限界は結局「人」であるという点からも、今後、企業組織を構成する人材の多様化に対する対応体制を整備していかねばならない。但し、少子高齢化やグローバリゼーションだけが、ダイバーシティを後押ししているのか、そもそも当社は何のためにダイバーシティを選択・推進するのかについての明確な回答を企業は用意しておくべきである。
3.ミドルクライシス(若干の危機)マネジメントの時代へ
前記した昨今の各種事案・事件等でお分かりのように、リスクを顕在化させないように予防している、各種規定・規程、ルール、マニュアル類の基準は、それを遵守・実行する社内環境や個々人の属人的主観、さらには社会環境等によって変化し、場合によっては、形骸化する。
企業内に各種のミドルクライシス(若干の危機)が存在する限り、それは過去において自然消滅(含.社内処理によって一時的に解消したもの)した事案も含めて、何らかのトリガー(引き金)により、表出・表面化し、問題となって、社会の知るところとなる。
よく企業不祥事が頻発していると表現されるが、「頻発」ではなく、企業内で既に発生しているミドルクライシスの「発覚」が多くなったという面もある。
そして企業においては、内部統制の強化が唱えられ、経営陣が善管注意義務に問われることなどにより、経営陣が自社のミドルクライシスを発見する努力が求められ、その手段の一つとして内部通報制度の導入等が推奨されてきたが、今後は、このようなミドルクライシス要因を企業側がどのように認識し、対策を講じて、重大なクライシス(問題発生)の未然防止と対策および改善を行っているのか、行おうと考えているのかという、まさにミドルクライシスマネジメントが求められる。
上場企業においては有価証券報告書に企業が対応していくべきリスクについての対策方針等を明記し、ステークホルダーに対して、健全な企業継続に対する方向性を発表している。但し、残念ながら、それらは未だ形骸的で、本来の自社におけるミドルクライシスの発生要因の具体的な分析・深堀り・検討・対策等が盛り込まれていないのが現状である。
問題を起こさない、問題を抱えない企業など存在しないとの基本認識のもと、他社で起きた事案や、法律改正、社会からの要請の変化等に照らして、今一度、自社のミドルクライシス(若干の危機)の要因についての分析・検討を行い、大きな問題に発展する前に対策を立て、予防を行っていくというミドルクライシスマネジメントが同業他社との差別性・優位性・透明性の確保とステークホルダーの理解と安心に繋がる、正に経営そのものとして理解し、実践して頂けたらと切に願うものである。