SPNの眼
常識層と非常識層
筆者は2012年11月7日、本稿にて、同一テーマの論考を載せました。
今回はその続編に当たります。それでは前稿では、どのような”識”を取り上げたのか、もう一度ここで整理してみましょう。
まず、”常識/非常識”をセットで論述し、次いで”良識”、”見識”、”胆識”と続けました。さらに、”知識”を介在させることで、今度は”意識/無意識”をセットで関連づけ、”深層意識(心理)”まで踏み込みました。そして、最後は危機管理に絡めて、”眼識”の重要性を指摘して締め括る形で、それぞれの用語と企業不祥事の対応などとの相関の解説を試みました。
さて、続編となる今回は、各種”識”の意味するところと具備すべき実在を、”常識”を基点に再度読み解いていきたいと思います。当然、話しは”常識”からスタートします。
これまでも当サイトの「コラム&レポート」では、幾度となく引用してきたことですが、企業不祥事発覚の度に繰り返し、弁明されてきた「会社の常識は社会の非常識」というロジックと実態は今なお根強く蔓延っているのでしょうか。
話を分かりやすくするために、社会全体の文化尺度の中に占める”常識”層と”非常識”層の構成比をざっくりと単純化してみましょう。例えば、直近で不祥事等を起こした企業や団体、また不祥事を起こす蓋然性が極めて高い企業・団体、あるいは不祥事が起きる潜在レベルが顕在化一歩手前まで来ている企業・団体、さらにこれにブラック企業と準ブラック企業(グレー企業とルール形骸化企業)を加えた集団を「非常識層X」とします。
次に、それこそ「これまでの常識では考えられない」価値観や思考に基づく行動を採る各種の新型クレーマー・モンスタークレーマー(含.ペアレンツ・ペイシェント)グループ、これに電車内・駅ホームや近所で、平気で周りに暴力行為や迷惑行為を及ぼす人々、さらにいじめやストーカーなど各種犯罪者および犯罪予備軍を加えたグループを「非常識層Y」とします。そして、残りの部分を「常識層Z」とします。つまり、極めて簡略化した形ですが、「非常識層X」+「非常識層Y」+「常識層Z」=社会全体、と見なします。
さて、少し回りくどくなりましたが、先の「会社の常識は社会の非常識」という論理(というか、実際には言い訳)が、今なお有効性を保つためには、X、Y、Z、3つの層の中で、「常識層Z」が圧倒的多数を占めているという健全な社会が前提になります。
つまり「会社の常識は社会の非常識」などという因循な論理を振りかざしている企業は、あくまでも少数派であるとの了解があるからこそ、”取り敢えずの反省の弁”として、一時的にでも受け止めてもらえることに繋がっているのです。換言すれば、「会社の常識は社会にも通用する」との固陋な観念に囚われている企業が多数を占めるはずはないとの了解です。しかも、本音の部分では、実は「社会に通用しない」、あるいは「見つからなければ大丈夫」との思いすらありますので、会社の論理が教条的でもあるケースの存在の証左となります。
層間移動
話しを進めましょう。しかし、近年の現実の社会状況をつぶさに観察するにつけ、「会社の常識は社会の非常識」派が少数派であると、簡単に割り切ってしまえない面があります。それだけ社会が複雑さを抱え込んでいるのです。
社会的混乱を来しているとも言えるでしょう。それは、”取り敢えずの反省の弁”が文字通り、”取り敢えず”の域を出ず、それだけの機能しか果し得ないということに止まらず、ただでさえ、多種多様な”非常識者”を擁する「非常識層Y」が増大化する傾向が見られるからです。つまり、”取り敢えずの反省の弁”が多用化・常習化され過ぎて、発する方も、受け取る方も感覚的に麻痺してきているからです。「またか」といったところです。
「非常識層Y」については、その構成要素を上記に詳述しましたが、もう少しマクロな社会現象として観察すると、その増加の背景には、自責ではなく、他責により問題解決(問題のすり替え)を図ろうとする人々、より弱い者へのイジメの連鎖、あるいはグループ内(仲間内)勢力図の変化によるイジメの転移や立場の逆転、階層化への執拗な執念(他人を自分より下に見たい)、あるいは、とにかく敵と見方を分けたがる等々のほとんど尋常とは思われない心理・病理現象・幼児性に驚く程多くの人々が侵されていることが挙げられます。
そのため、意外なことに(同時に予想通り)、この「非常識層Y」の自己膨張は、「常識層Z」からの流入がケースバイケースで頻繁に起きていることによって、連続します。
つまり、所属している”層”は、現実には固定化されておらず、流動的なのです。常識層Z」に属する個々人が抱える、あるいは、関わるマタ-・利害局面によって、常識的になれたり、非常識になったりしてしまう人々が増えていることを物語っているように思えるのです。”層”自体は、一見固定化しているように見えても、その構成員の流出入(層間移動)は比較的自在であり、また個人としての存在は固定していても、その心と頭のなかでの”常識/非常識”の変換も自らの利害次第(自己都合)で容易になってしまうのです。
これには、多分に経済的格差が影響していることが想像されます。その上、この変幻自在で膨大な「非常識層Y」は、「非常識層X」に属する企業とその社員のみならず、「常識層Z」に属する企業とその各ステークホルダーである場合も少なからずあることは、現実的な人口分布(総人口は一定、むしろ減少傾向にある)を考慮すれば明らかでしょう(学校や病院のステークホルダーとしても重複している、つまり役割として重複しているのみならず、局面によって属性が変換する)。
かくして、今や、健全なる社会のなかで、圧倒的かつ安定的多数を”占めているはず”の「常識層Z」の名誉ある地位が揺らいでいるとの懸念が払拭できない社会情勢を呈していると言わざるを得ないのです。つまり社会全体で、”常識”が揺らぎ、不安定化し、レベルが低下し、ついには”非常識”化していく様相が捉えられるのです。それ故、企業不祥事にしろ、社会的犯罪にしろ、むしろ、発生しやすい環境要因が活性化している現状が眼前にあるのです。
このことから、各種社会問題(含.企業不祥事や非常識行動)の解決にとって、「常識層Z」の安定的多数を社会の中で如何に維持していくかが、極めて重要な施策であることが理解されます。ここ手を付けないままでは、他分野の施策(法律・制度・ルール・規程等)をいくら動員しても、何故根本的解決には繋がらないのかが理解されてくるのです。
常識の立て直し
「常識層Z」の不安定化と減少は、社会の病理現象と表裏一体のものです。この全体像の把握なしには、企業不祥事や業界の不誠実さや非常識を一面でしか語っていないことになるのです。これは残念ながら、内部統制を含めた、現実の危機管理論の限界でもあるのです。それでは、一人ひとりの個人(社員・親・国民)にできることは何でしょうか。
自分自身がいつ如何なる場面でも、安定的かつ確信を持って、「常識層Z」に属し続けていられるような自覚と配慮と注意が必要なことは、言うまでもないでしょう。
「それは、ちょっと非常識なのでは・・・」との周囲の人からの指摘には、常に謙虚に耳を傾けるべきです。また、そのような指摘をしてくれる人たちに囲まれて、彼らとコミュニケーションを図っていき、そのコミュニケーションの輪を広げていくべきです。
そのような意識的環境形成と覚悟の下に、”常識”を攻撃・侵食する強欲、傲慢、差別、中傷、欺瞞、偽善、報復、憎悪、復讐、怨恨、嫉妬などのルサンチマンを排除し、無力化していかなければなりません。そのためには、ある程度(またはある種)の精神修養や精神的鍛錬も必要になってくるでしょう。但し、精神的修養や鍛錬は選択肢を選ばないし、自由意志でも、ある程度強制でもどちらでも良いのです。ルサンチマンを排除できるか、できないかは、あくまでも結果論でしかないからです。
その上で、今や危機に瀕しかけている”識”の基本たる”常識”を再強化し、前稿で解説した”良識”や”見識”、”胆識”や”眼識”、そして、もちろん”知識”をも身に付けていくことが求められているのです。これらは、別に自ら意図的に口にせずとも、結果的に周りから、「この人は(そのような)幾つもの”識”を身に付けている人(会社)だ」と見られていることが肝要なのです。そうなろうとしてなっても良いし、自然となっていた、ということでも良いのです。
以上のような流れの話しをすると、「自分は聖人君子ではないから」とか「聖人君子である必要などないではないか」との反駁が聞こえてきそうです。しかし、勘違いしてはいけません。繰り返しになりますが、”聖人君子”であるか否かも、周囲から見た結果論なのです。例えば、現在「常識層Z」が減少してきているとしても、以前は多数派を占めていた、この「Z層」に属していた人々は、別に聖人君子でも何でもなく、普通の人、”常識人”だったのです。
これまで安定した多数派であった「常識層Z」が不安定化し、少数派に転落し、その立場が逆転してしまえば、一体この社会はどうなってしまうのでしょうか。つまり、少数派と多数派が入れ替わり、かつての「会社の常識」が、実質・実態においては「社会の非常識」であったにも関わらず、その時々の趨勢に応じて、「社会の”常識”」のベールを纏い、大手を振って罷り通ることになってしまうかもしれません(実際は、周りが見て見ぬ振りをしているケースが多いのですが)。もしそうであるならば、企業不祥事も社会的犯罪やいじめなどの社会的病理現象もなくなるはずはありません。否、確かになくならないのでしょうけど、誤った対処法や対処法のレベルの低下が懸念されます。
今、”常識”の立て直しが急がれます。そのためのキーワードは、自利や利己ではなく、利他の精神であることを、もう一度、日本社会全体で想起すべきでしょう。その利他の精神も周辺を拡大し、当然自己も包含していくのです。
唯識とは
さて、前稿と本稿と二度に亘って、多様な”識”について、考察してきましたが、ここで少々論点をずらしてみたいと思います。”識”を論ずる以上、やはり”唯識”に触れないわけにはいきません。”唯識”とは、「各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、個人個人にとってのあらゆる諸存在が、八種類の”識”によって成り立っている」とする大乗仏教の見解の一つです。
”唯識”で仮定されている八種の”識”の内、五つは通常、五感と云われているものです。つまり、五感は”識”であると考えられており、それぞれを眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)と呼んでいます。これに続いて、六番目に自覚的”意識”が来ます。ここまでが”意識”の世界となります。
そして、その下の七番目に”末那識(まなしき)”と呼ばれる”潜在意識”が想定されており、ここからが”無意識”の世界に入ります。この”末那識”は自己に執着します(フロイトのイドのようなものです)。前述した自利や利己に直接関わることがすぐ連想されるでしょう。さらに、その下の八番目に”阿頼耶識(あらやしき)”という根本の”識”があるとされています。
宗派によっては、さらにまたその下に”阿摩羅識(あまやしき)”や”乾栗陀耶識(けんりつだやしき)”を含む十識説も説かれています。
ここまで来ると精神分析学でいう”超自我”や、”大日如来の意識”(宇宙意識)、キリスト教的には、”神の御心”といった無限域レベルでの”識”といった感じでしょうか。永遠なる広範さを併せ持つ”大意識”と言っても良いでしょう。
ところが、これらのものも実は個々の「良心」に繋がっているというのが個人的な見立てです(「胸が痛む」とは、このことを指すと考えられます)。
”唯識”では、人間の全ての言行が”阿頼耶識”のなかの種子(しゅうじ)に記録され、”阿頼耶識”のなかに蓄えられると考えます。この種子は、「善想念」と「悪想念」に分類されます。悪想念とは、これも前回述べた各種のルサンチマンと同義と捉えて良いでしょう。となれば、善想念の方は利他的言行であることは明らかであり、悪想念が捨て去れば、現実世界の不祥事や犯罪の所業となって現出することもないはずです。何故ならば、”会社の非常識”も”社会の非常識”も、この悪想念に基づくものだからです。”阿頼耶識”のなかに悪想念の種子を蒔いたのは自分ですから、それは自分(自社)で刈り取らなければならないのです。
”唯識”とは、仏教概念であるので、やはり、”無常”や”空”の世界観に通底しています。単なる物欲や情欲に絡め取られない基本的姿勢や態度を指し示していると言えるでしょう。ただ、いくらコンプライアンスが叫ばれていても、これと資本主義システムとの折り合いの悪いことは、周知の通りです。そうはいっても、誰だって不祥事企業の社員にはなりたくないし、ましてや、その実行者や責任者などには、絶対になりたくないはずです(家族のことを考慮すれば、尚更です)。したがって、一般人にとっては、”常識ある社会人”、”常識ある企業人”であることが、取りも直さず、重要なことなのです。
さて、最後に付言しておきたいことは、本稿でいう”常識”とは、以下のような文脈で使われるものとは違います。即ち、「それは日本国内だけで通用する常識だ」、「それが(今や)グローバル資本主義下における世界の常識だ」、「それが彼らテロリスト集団の常識だ」などです。これらは狭義の、あるいは特異な世界での常識です。
本稿における”常識”とは、世界史・人類史上のあらゆる宗教・信仰・哲学に遍く共通する普遍的価値・金言・格言・教訓・良心・道徳・親愛・銘記・指針等々の最大公約数的体系を有するものを指しています。