SPNの眼
今回は、企業のBCPについて考えてみたい。BCPとはBusiness Continuity Plan(事業継続計画)の略。災害などの緊急事態が発生したときに、企業が損害を最小限に抑え、事業の継続や復旧を図るための計画のことを指す。
有名な事例としては、2001年9月11日の米国同時テロ多発事件で民間機が突入して崩壊した世界貿易センタービル(WTC)に入居していた証券会社の事例が挙げられる。同社は1機目の航空機が北タワーに突っ込んだ7分後にBCPを発動して緊急事態対策本部が立ち上がり、20分後には9千人の従業員を全員タワーから避難させた。同時にコンファレンスコールというほかの支店と常時接続した回線をつなぎ業務連絡を徹底。本社が崩壊したにもかかわらず、翌日には「当社は問題なく業務を遂行している」と言うメッセージを顧客宛に配信したという。
2011年の東日本大震災ではサプライチェーンの問題が発生し、多くの有名メーカーが長期間にわたって生産停止を余儀なくされ、多大な損失が発生。日本でもBCPが大きくクローズアップされた。現在では株式上場時のコーポレートガバナンスコードにも大きく取り上げられている。熊本地震や北海道北部地震などを見ても分かるように、首都直下地震や南海トラフ地震だけでなく日本全国全ての場所で大地震が発生する可能性がある。「災害大国日本」において、企業のBCPは非常に重要なものなのだ。
- 注)BCPは、言うまでもないことだが「防災計画」ではない。米国などでは事業継続の手段として、「リストラ」などもBCPに含まれることがある。ただ、わが国では災害による被災の危険性が極めて高いことから、BCPの入り口として災害対策から入る場合が多い。
BCPにおける優先業務の考え方
実際に、首都直下地震を想定して企業の行動を考えてみる。企業として一番守らなければいけないのは、まず「従業員の命」だ。従業員がしっかり働く環境を整えることができなければ、事業を継続することはできない。基本的なこととして、まず家庭と同じく会社が入っているビルや工場などの耐震診断が重要になる。東日本大震災では、関東にあるメーカー工場まで被害が及んでいる。もともと大きな柱を複数本立てることができない工場は構造上地震に弱く、多くの工場で天井が崩落したなど甚大な被害を受けている。まずはこれらの耐震化や機械などを固定。事務所ではキャビネットやコピー機など地震で動きそうなものを固定することが企業BCPの第一歩だ。
ここでもう少し、BCPの手法について詳しく見てみよう。BCPでは「優先業務」を決めることが重要なファクターの一つだ。大災害が発生した場合、普段の企業活動を全て続けることは困難になることが予想される。その場合、止めてはいけない、もしくは早期に復旧させなければいけない業務をあらかじめ決めておけば、その業務の復旧に全力で当たることができ、早期復旧の可能性が高まる。先述の工場の耐震固定についても、「最悪の場合、Aラインはつぶれてしまってもかまわない。Bラインの復旧を最優先させる」と決めておけば、Aラインのほうは人命優先の最低限のものとし、優先させるラインに費用をかけることができる。このようにして、震災後の姿を想定しながら優先業務を決めるのがBCPの重要な作業の一つだ。
優先業務の決定は、社長や会長などのトップを含めた取締役会メンバーで決定することが望ましい。なぜなら、優先業務は売り上げの多寡だけでなく、取引先からの強い要請や企業の社会的責任の側面など、様々な側面から考えなければいけないからだ。例えば大手の製薬会社では、病院で点滴などに使う生理用食塩水について国内で半分以上のシェアを握る。さらに、災害時には多量の需要が予想されることから、社会的な責任として「災害時にも生理用食塩水の製造/出荷/物流は絶対に止めない」というBCPを構築している。このように様々な面から議論し、優先業務を決める必要がある。
帰宅困難者対策。黄金の72時間
首都直下地震や南海トラフ巨大地震で考えられる最も大きな問題の一つが、帰宅困難者対策だ。東日本大震災では10万人を超える帰宅困難者が発生したが、大地震が平日の昼間に発生した場合、政府の中央防災会議は首都圏(1都4県)で800万人の帰宅困難者が発生すると予想している。東京都ではこの状況を受けて帰宅困難者対策条例を策定。企業に対して大災害が発生したら3日間は会社内に従業員をとどめておくことを求めている。
なぜ「3日間」なのかというと、この72時間は人命救助のゴールデンタイムと呼ばれており、瓦礫などに挟まった人を助けるリミットだからだ。その72時間の間に帰宅困難者が大量に発生し、大渋滞が発生するなどの事態が発生してしまえば人命救助が非常に困難になる。まずは3日間、企業は従業員を会社にとどめておく努力をすることが、大勢の命を救うことにつながるのだ。
そして3日間の備蓄で何が最も重要かといえば、やはり家庭と同じく「トイレ」だろう。大勢の従業員が勤めるオフィスビルでも、マンションとまったく同じ現象が考えられるからだ。トイレを我慢しながら業務を続けることは、体調不良の原因に十分になりうる。関東弁護士会連合会災害対策協議会会長などを務める弁護士の中野明安氏は、「社員が災害後にも安全な職場で仕事ができる環境を作ることは企業の責務。トイレを備蓄しておかないことは、企業の安全配慮義務違反に当たる可能性もある」と指摘している。そして備えるだけでなく、訓練などを通じて従業員に浸透させていくことが重要だ。
BCPでもあなどれない水害
ここ数年、水害被害が絶えない。なかでも昨年発生した平成30年7月豪雨では被害が北海道から九州までの広範囲に及び、死者 224 人、行方不明者 8 人、負傷者 459人を数え、平成最悪の水害となった。なかでも岡山県倉敷市真備町では51人が死亡。こちらも県の災害として戦後最悪といわれている。なぜ水害被害が増えているのだろうか。先日(2019年5月22日)、気象庁の気象研究所や東京大学大気海洋研究所らは合同で、「平成30年7月の記録的な猛暑に地球温暖化が与えた影響と猛暑発生の見通し」と題した報道資料を発表した。資料によると平成30年7月の熱中症による死亡者は1000人を超え、熱中症による月別の死亡者数としては過去最多を記録したとのこと。さらに同年は全国のアメダス地点における猛暑日(最高気温が35度以上の日)の年間の延べ地点数が6000地点を超え、こちらも過去最高となった。資料では「このような猛暑の事例は、地球温暖化の進行に伴って今後も増え続けると予想される」と明記した。
地球温暖化と台風の激化
台風はどのように発生するか、ご存知だろうか。台風の定義は「西部北太平洋の赤道より北で東経180度(日付変更線)より西の地域、または南シナ海の風速17m/s以上の風速を持つ熱帯低気圧」と、厳密に決まっている(同様に東部北太平洋で発生するものが「ハリケーン」、南太平洋とインド洋で発生するものを「サイクロンと」呼ぶ)。
台風の強さを決める重要な要素のひとつが、海面の水温だ。2013年にフィリピンに上陸し、死者6200人、行方不明者1800人という大惨事を招いたスーパー台風「ハイエン」は、29℃くらいの海面水温の上を東から西に移動し、勢力を弱めないままフィリピンに上陸した。名古屋大学地球水環境研究センター教授の坪木和久氏は「遅くとも今世紀後半には、それと同じ程度の海面水温が日本付近にまで広まり、ハイエン級の強さの台風が日本に到達するだろう」と話す。
先述したような地球温暖化により、世界中の海面温度が今後も上がり続けるとすれば、今後水害は激しさを増すことはあっても少なくなることは考えられない。企業は地震と同じく、水害のハザードマップも注意深く見る必要があるだろう。
「ここにいてはダメ」。江戸川区のリスクコミュニケーション
今年5月下旬に江戸川区が公表した水害ハザードマップが、賛否両論を巻き起こしている。表紙には堂々と「ここにいてはダメです」と書かれており、区外への避難を促した。台風や大雨で荒川の堤防が決壊すれば江東5区ほとんどすべての地区が水没し、250万人が浸水するといわれる。
住民には早くも動揺が見られるというが、対策は難しいものではない。現在は降水確率がかなりの精度で的中するので、同区では2日前に自主避難を呼びかけ、1日前に避難勧告を発表するとしている。発表されたら、雨が激しくなる前に区外の親戚や友人の家に「避難」するのが最も望ましい。知人がいない場合は、近隣自治体が開設する避難所に逃げるのもいいだろう。大事なことは「逃げないリスク」を正しく理解することだ。同区のハザードマップは、水害対策を率直に住民に訴えた正しいリスクコミュニケーション事例といっていいだろう。
同時に、このメッセージを企業はもっと真剣に受け取らないといけない。例えば避難勧告が出たらどうするか、同区にある企業は真剣に受け止め、業務停止の基準等を決めておかなければいけないだろう。また、同区にすむ従業員に対しては、できれば企業としても避難を促し、家族の受け入れ先として自社を提供するような施策があってもいい。江東5区全てが同じような状況であることは想像に難くない。今回の江戸川区の英断を機に、自治体と企業ももっと現実的な対策を考える必要が出てきたといえるだろう。
家庭を守れない人に組織は守れない!
地震にしろ水害にしろ、BCPにおいて従業員の命を最優先に考えることは非常に重要だが、実は同じくらい重要視しなければいけないことがある。それは社員の家族の命だ。家族が傷ついたり、避難所などで不便な生活を強いられていたりする状況で、社員が仕事を精一杯できるとは考えられない。社員の家族が安全で、備えも十分であればこそ、初めてBCPはその実効性を発揮できる。家庭を守れない人に、組織は守れないのだ。
先進的にBCPに取り組むメーカーでは、社員研修などで防災意識を高めるとともに、従業員の自宅の備蓄にも補助金を出しているケースもある。BCPを策定するとともに、それを実行するために社員と自然災害に対するリスクコミュニケーションを常に図り、従業員の防災に対する感度を上げていくことが、BCPの実効性を高めるための一番の近道だといえる。
(了)