SPNの眼
総合研究部 専門研究員 石原 則幸
※本稿は全3回の連載記事です。前回(5月号)はこちら
「危機管理の強化」に繋がらない「危機管理体制の整備」
前稿で、「危機管理(策)の(再)強化の内実とは、即ち、内部統制の充実・コンプライアンスの強化・ガバナンスの強化ということが言われる」と述べた。実際、危機管理体制の整備にとっては、内部統制・コンプライアンス・ガバナンスの何れも欠かせないだろう。報道では不祥事を起こした企業に対しては、「内部統制が採れていなかった」、「コンプライアンス意識が著しく欠如していた」、「ガバナンスが全く効いていなかった」などと跡付けられる。
この3つはそれぞれを補い・サポートしながら全社的な危機管理を推進していく役目を担わされているはずである。もっと言えば、3つともその目的を100%遂行することが、期待されている。仮にこのうち2つが100%の機能を発揮していても、残りの1つが90%に留まるならば、その-10%分を2つの機能が補完し切れていないのである。
それよりも残りの2つの100%達成度合いにすら疑義が生じるところである。もともとこの3つは非常に近い概念を有し、機能的にも重複する部分がある(屋上屋を重ねていないとも言い切れない)。したがって、表面的には、たとえば内部統制100%、コンプライアンス100%、ガバナンス90%のように見えても、実際は、それぞれ70%、60%、50%の達成実現割合だったりする。
これは企業側に制度形式的な負担を強いているとも言えるが、これが“形式的”な負担だけに問題を複雑にしている。現状の非財務情報開示についても、その定量化(金額化)の根拠が曖昧なことにも通じている。
いずれにしても、これら3つが期待される機能を十分果たしていないと、それらを重要な構成ファクターとする危機管理そのものが、「全くなっていなかった」と跡付けられてしまうのであり、事実そのようなケースが圧倒的に多い。一体何故そうなってしまうのか。それは、所詮と言ってしまうと否定的に響くが、結局、危機管理に関わる全ての対策は、組織・責任担当部署・責任担当者(個人)が計画・実行するものだからである。
つまり、内部統制・コンプライアンス・ガバナンスの3つに関して言えば、それぞれが有機的に結び付いていて、調整・協力・連携・コミュニケーション体制(方策)が果たして取れているのかという問題に行き着く。3つがそれぞれ自分勝手な方向に動いていないか、あるいは同一部署が重複した業務を進めているのではないかという基本的疑問である。巷間よく言われる“性弱説”(不祥事の当該人物に限らない別の弱さ)とも関わる問題でもある。
さらに言えば、この3つの概念・施策は本当に全社をカバーしているのか、できているのかという問いが成立する。何故ならば、不祥事を発生させた企業はその発覚前には、内部統制・コンプライアンス・ガバナンスそして全社的危機管理に関わる、宣言やポリシー、指針・マニュアルなどはほぼ整備してあり、HP上でそれらを高々と謳っているからである。まさに前稿で述べた、“ショーウインドーの装飾化“であり、口先だけに陥ってしまっている。
つまり、当該不祥事に繋がるリスクの防止の効き目は中途半端に留まり、あるいは(効き目のない部分を)スルーし、リスクの発見は共有されず、報告もされない。報告されたとしてもそれがまた共有されないという悪循環というか、従前のやり方が罷り通ってしまう。これではいくらHPを美辞麗句で飾ったところで、何の意味もない。
そこで、さらなる“危機管理体制の強化”のために、改めて“内部統制の再充実・コンプライアンスの再強化・ガバナンスの再強化が図られる”ことを宣言することも、前稿で触れた通りだ。これらが本当に漏れなく全社的範囲をカバーできているのだろうかということである。その例外なきカバレッジの絶え間ない拡大なしに、過剰なコンプライアンスを社員に強要するのは組織設計や人材育成面から考えるとあまりメリットはない。
内部統制に関して言えば、そこに内部ならではの限界があるのなら、それは外部統制とバランンスさせていくことになろう。そのためには内部と外部を隔てる壁を除去とは言わないまでも、限りなく低くする必要がある。所謂、“経営の透明性”の確保である。社内・社外を問わない透明性はリスクの発見に資するはずだ(「恐れのない組織」の実現)。ここで間違ってはならないのが、いくら透明性とは言っても、それは“企業機密”を指すものではないということである。
ガバナンスに関しては、株主はもとより、内部監査・監査役・社外取締役それぞれに期待される機能と役割がある。しかし、それは経営者が期待するものではないのである。言うまでもなく、それは“社会の期待”である。どうも現状ではこの点に関する誤った認識が支配的のようだ。何も、“物言う”と形容されるのは株主だけではなく、むしろ監査役や社外取締役にこそ称されなければならないし、そのような線に沿った人選が大前提である。人脈に頼んだ自社都合のロビー活動やレントシーキングなどは、ガバナンス面はもとより、コンプライアンスからも看過されるべきではない。
また新自由主義的な株主資本主義からの脱却の意味も込めて、近年ではステークホルダー資本主義が一部から推奨されているが、あまり大きな相違はない。前稿で述べたように一企業にとってのマルチステークホルダーとは社会全体とは重ならず、その一部を構成するだけである。社会には自社との利害関係を有さない非ステークホルダーの方が圧倒的に多い。
危機管理とCSR、CSV、ESG、さらにSDGsまで含めて、社会との関係を論ずるのであれば、視野を狭めてはいけない。自社の経営活動が社会の格差や分断を促進しているならば、尚更である。その意味でも、ステークホルダー内で重視すべきは、従業員や下請業者であることを決して忘れてはならない。利益や株価は最後に付いてくるものとの認識が、本稿のタイトルである「企業危機管理」と「社会危機管理」を合致させるものなのである。適切な利潤追求の目的には、適切な手段がセットになっていなければならない。
内部統制との関連で言えば、3線ディフェンスも同様である。3つのディフェンスラインも安々と通り抜けられるのなら、全く意味がない。ここでも相互の連携や協力がいかに図られているかが重要なポイントである。どういう種類・領域のリスクであれば、それらをスルーできる(できた)のか、何故それが例外となり、全社的な施策や方針のカバレッジを阻害することになったのか、あるいは何故忖度や聖域が生まれたのか。この分析が何よりも重要である。そしてその分析は本来、不祥事発生後の第三者委員会の調査結果に委ねる前にできていなければならない。
統制環境とは社内風土/組織文化
これまで述べてきた通り、3つの危機管理施策には、企業が自ら決めたカバー範囲の限界という壁に突き当たっている。そのカバー範囲を無視して不祥事等の再発防止(危機管理体制の整備・強化)策を考案するには、まずは①それが建て前や掛け声だけに終わらないようにしなければならない。②次に制定(改定)される諸規則や規範などもやがて時間経過とともに形骸化・陳腐化するであろうことを予め想定し予測としても折り込んでおく。
③また、その上でヒト(該当者/関与者/指示者/協力者/黙殺者)・コト(事象)・モノ(原料/仕掛品/製品)・カネ・システムの中のどこに脆弱性と責任が所在しているのかを効率的に明確化できる仕組みを客観的に設計しておく。同時に④どのような責任の問われ方に対しても対応できる“責任の取り方体系”を、組織的メカニズムと個人的覚悟の両面を融合した形で準備する。⑤つまり、健全なリーダーシップが発動可能な状況・状態を形成する。⑥そして、カバー範囲の限界(聖域)を破る挑戦的なサイクルを回し続けられれば、それに越したことはない。
既述した“性弱説”に関しても、「そもそも人間というものは…」、あるいは「組織というものは…」という結論を持ってきてしまうと先に進まないので、改めて、性善説・性悪説に触れてみたい。性善説は、「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ」ということだ。性悪説は、「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ」ということである。
つまり、どちらの説においても結局は、「人は善行も悪行も行い得る」のである。これを企業人に当て嵌めると、「社員は入社時は…」ということになるため、その後の社内教育やOJTプロセスにおける“成長過程”に大きく左右される。つまりは、個人の価値観と組織の価値観のせめぎ合いである。このせめぎ合いのない環境を期待するのは、そもそも無理なのであろうか。無理であるならば、その理由も探索すべきである。
さてここで、内部統制との関連で統制環境に言及していくことにしよう。統制環境とは何であるか、文字通り言えば、統制を実行する上でそれを促進したり、疎外したりする種々の環境要因、即ち社内環境ということになろう。あるいは、統制すべき(可能な)範囲・対象とも解される。そうなると、当初から統制不可能な範囲・対象は想定されていないのだろうか。それとも統制不可能なモノを統制可能にすることが、内部統制、あるいはコンプライアンス、ガバナンスの役割なのだろうか。これについては、「是正」や「改善」の意味を改めて噛み締めることが必要だ。
しかしながら、毎年繰り返される企業不祥事の多発は、これら3つが十分に機能していなかったことを如実に物語っている。統制環境の範囲から言えば、これまでその範囲外であったものもしっかりと射程内に入れていくということになる。これには従来一定の範囲内であったものさえ、統制できなかったものが、その範囲を拡大しては尚更十分な機能を発揮することは期待できないだろうとの指摘もあり得る。その辺の事情はこれまで述べてきたとおり、コンプライアンスもガバナンスも同様の“範囲”問題を抱えている。
内部統制が全社的危機管理の一翼を担うのであれば、統制環境は、社内風土/組織文化と読み換えるべきである。社内風土/組織文化はまさに全社的に拡がり、浸透しているものである。良きにつけ悪しきにつけ、全社員の表の、そして裏の行動規範になっているものである。そこには目に見えない圧力、ある種の行動を縛るもの、逆に一定の行動様式や意思決定に走らせる忖度や“決まり”が、暗黙のルールとして明文化されることなく存続している。
この統制環境=社内風土/組織文化をそれこそ健全に形成・育成していくためには、これを「土壌」として捉える思考アプローチが参考になる。多くの示唆に富む比喩を紹介しよう。「土壌」は絶えず改良されて、健全な組織文化の土台を醸成する。その豊かな「土壌」に優良な「種子」が蒔かれる。この「種子」類の名が、コンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスなどである。CSR/CSVを加えても良い。優良な「土壌」に優良な「種子」が育つ。各々の「種子」自体は決して万能ではない。互いに良い影響を及ばし合うのである。
不良な「土壌」にはそれらの「種子」は撒かれても育たない。逆に、優良な「土壌」は悪い「種子」(不正のタネ)を弾くが、もちろんそのためには組織風土には「自浄作用」が働かなければならない。「自浄作用」が働くには、「自浄能力」が不可欠だ。「自浄能力」とは組織の「DNA」のことであり、この「DNA」を明文化したものが「経営理念」に他ならない。
また、企業組織全体を生育「環境」と捉えた場合、「土壌」以外に、「水」と「空気」と「太陽光」が必要である。「水」とは社内外のコミュニケーションの存在であり、「空気」とは社内の透明性を担保するための外気、つまり社会の空気・社会の眼(常識や倫理観)であり、そして「光」とはリーダーシップのことであるが、全従業員の「コミットメント」と表裏一体になっている。
この“土壌”を取り巻く環境(社内風土・統制環境)においては、“人工的な気候変動”がない限りにおいては、健全性・有効性・効率性・生産性が自然に育まれていく(形成された「社内風土」自体が良い「肥料」になる)。そしてこの過程においてのみ、「企業価値」は向上していくのである(決して株主価値だけではない)。
これら全体が好循環していくシステムが適切な「経営環境」(小宇宙・エコシステム)を形成するのである。但し、そこに余分な化学肥料や農薬を使用してはならない。また、GMO(遺伝子組み換え食品)やゲノム編集食品を育ててはならない。さて、エコシステムである「経営環境」の集合体が「社会環境」であり、「企業危機管理」と「社会危機管理」が交じり合う接点となるのである。次回(最終回(7月号))は、「社会危機管理」をメインに解説していく。
第二回 おわり