SPNの眼
総合研究部 専門研究員 石原 則幸
※本稿は全3回の連載記事です。前回(6月号)はこちら
CSRからの再照射~そしてSDGs
本連載は、今回が最終回となる。過去2回にわたって、掛け声に反して、企業の危機管理の“強化”は進んでおらず、むしろ不祥事の多発に見られるように“弱体化”しているのではないかとさえみえる実情を述べてきた。その中で危機管理の強化に資するはずの3大要素、即ちコンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスも実現しておらず中途半端に終わっている。改めて、一つずつ顧みる。コンプライアンスは法令順守であるだけにとどまらず、“倫理的行動”を要請する。内部統制は危機管理の整備・強化のための枠組み作りである。
そして、そのためには統制環境=社内文化の成熟が何よりも急がれる。“倫理的行動”も社内文化から自然に育まれるものであり、まさに環境整備である。ガバナンスは、前2者が強いリーダーシップに担保されるのとは違い、株主の視点からトップの暴走を牽制する役目を有している。ガバナンスにより経営の合理性やバランスが取れていることは、コンプライアンスと内部統制の最低限の前提条件とも言える。
しかしながら、“社会からの要請”や“社会からの期待”などに応える場合、自社の株主は社会の構成要員の一部を占めるに過ぎない。そこで社会全体の利益(即ち公益)を図る、あるいは公益を毀損しないという目的のためにCSRが謳われてきた。つまり、「(自社の)株主の利益だけ追えばいいのか」の批判に対する一つの答えであり、“社会の公器”たる企業の存在意義を示し、果たそうとするムーブメントであった。それは現在のステークホルダー資本主義論にもそのまま当てはまる。同様に、「(自社の)ステークホルダーの利益だけ追えばいいのか」ということだ。自社のステークホルダーとて、社会の構成要員の一部を占めるに過ぎないからだ。
ステークホルダー間の利害調整がなされたとしても、それは社会全体から見れば、一部の範囲内での利害調整でしかない。実際にこの20~30年、グローバリズムと新自由主義政策の推進の下、世界各国で格差は開き、分断は促進されている。この点だけ見ても、これまでCSRとコンプライアンスは全く連動していなかったことが分かる。即ち、両者は分断されていたため不祥事も絶えなかった。本来、社会貢献的活動や社会貢献経営が反コンプライアンス的行為に繋がるわけはないのだ。残念ながらCSRの掛け声は、統制環境=社内文化の成熟に何ら影響を及ぼさなかったのである。新自由主義が強欲資本主義とも称される所以を考えなくてはならない。それは現在のSDGsにも言える。
今、SDGsバブルやSDGs疲れという言葉がよく聞かれる。実は、かつて同様にCSRバブルやCSR疲れともさんざん言われていたのだ。軽々に流行りに飛びつく日本人・日本企業の習性は変わらないようだ。実際、SDGsをネット検索する国は日本が圧倒的に多いという。それに次ぐのは主に発展途上国であり、先進国ではマスコミが騒ぐほど注目されていない。また、“SDGsビジネス”がCSRのときと同様、陰で大きな収益を上げていることにも留意しなければならない。それなのに、独ベルテレスマン財団と「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)」が毎年発表するSDGsインデックス・ランキング(2020年版)によると、1位のスウェーデンから13位のスイスまで全て欧州企業だ(日本は17位)。彼らから見れば、SDGsが叫ばれる前からやっていたことを特段変わらず継続していたら上位にランクされたのである。
これはESG投資が投資銘柄も投資実績も普通の投資とあまり変わらない事実とも通底している。個々の企業のESG対応に関しては、G(ガバナンス)の前にE(エンバイロメント)とS(ソーシャル)があるのだから、広く社会や世界に開かれた形態で進められるはずであるから、個々の企業(あるいは企業グループ)のサプライチェーンがシナプスのように連結していく。そして、「社会価値」の向上が図られるということが本来の目的だ。それが何故、下請けいじめや取引停止という選択肢を招き入れてしまうのか。サプライチェーン・リスクマネジメントの意義が問われるところだ。
SDGsでは「誰一人取り残さない」社会の実現が謳われるが、それなら何故、国々や各国社会の分断は止まるどころか促進されているのか。「分断」の特急列車は線路上の小さな石ころである、インクルージョンを蹴散らして疾走し続けているのである(ダイバーシティは現在、性的多様性や性的嗜好性として混濁状態に嵌っているのでここでは外す)。
さてここでCSRの後、一時期、持て囃されたCSVについて見てみよう。CSVにおける“共通価値”とは、誰と誰の間における“共通価値”なのだろうか。
もちろん、これはWin-Win(ウィン-ウィン)の関係者間で成立・共有される価値である。そしてそれはCSR的視点から見て、本当に価値あるものなのかが問われなければならない。言うまでもなく、社会全体はWin-Winの関係者だけで構成されるものではない。そこには、当然Lose-Lose(ルーズ-ルーズ)の関係者が少なからず存在する。現状の新自由主義的経済の下では、全て公正で公平な市場競争で勝者(強者)と敗者(弱者)が決しているわけではない(それがコンプライアンスが叫ばれる端緒でもあるのだが)。
つまり、CSVにおける“共通価値”とは、Win-Winグループ内だけで通用する価値なのである。その後もずっと続いているグローバリズムと新自由主義の流れの中で、SDGsの「誰一人取り残さない」とは、Lose-Lose(ルーズ-ルーズ)グループを視野に入れていない可能性が高い。分断と格差は止まっていないのである。すでに「取り残されている」人々がおり、年々増加している現実から目を逸らすことは許されない。SDGsが環境保護運動や LGBTQ+なども含めて、逆に新たな差別を生み出す全体主義やファシズムにならないよう注意深く見届けることが重要だ。耳障りの良い美辞麗句・取って付けたようなキャッチフレーズに誤魔化されず、流行りの言葉に踊らされることのないように細心の注意が必要である。後から気づいても遅いのである。
日本企業と国内政治
各企業内部における危機管理施策の遂行上、当然“できること”と“できないこと”がある。また、“やるべきこと”と“やってはいけないこと”に分けることもできる。コンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスはどうであろうか。ともに前者の“できること”、“やるべきこと”に含まれよう。後者の“できないこと”、“やってはいけないこと”と解するのであれば、その理由と背景(特に制約や障害)を突き詰めなければならない。
例えば、「過剰なコンプライアンスまでは不要だ」とか、「組織風土のどこに問題があるのか分からない」といった感度にしても、改善の取っ掛かりにしなくてはならない。そして、最後にCSRの観点からのチェックが必要だ。CSRの観点とは、自社のマルチステークホルダーを超越した、社会全体、公益、国益、国民益の観点からなされなければならない。そのCSRの観点は誰が持つのであろうか。トップか、従業員か。これを有しているのは、健全な社内風土に他ならない。
新自由主義経済政策下における規制緩和が受注環境を拡大したとしても、それがそのままコンプライアンスの抜け穴をも拡大してしまったことをもって、「よし、法的には問題ない」と勘違いしてはならない。そういう受注機会が続き、そのような体質を身に付けてしまうと、やがて経営の規律は失われ、企業は上からも下からも腐敗する。規制緩和は、ある意味、法的整備の後退でもあるのだからその分、自社のコンプラ体制はより強固にしておかなければならないのだが、過剰な競争環境がそれを許さなかったりする。そこがCSRの本来の出番なのである。
特に国際競争力の向上は金科玉条の如く喧伝され続けている。しかし、人件費カットによる国際競争力の向上は、法人にとっては良いが、従業員全体=国民にとっては、収入減となり全く逆だ。何故、先進国の中で、国際競争力ランキングを年々下げているのが、日本だけなのか。年々、国力の低下・国益の毀損として現出しているのだ。この実相は、法人とその関係者だけがWin-Winグループを形成していることを示している。これからどんどん人口減少社会が進み、移民を大量に受け入れたとしてもこの分断の構図は変わらない。因みに早期に大量の移民を受け入れたスウェーデンは、その後、性犯罪を中心に犯罪が急増し、治安が悪化した。国際競争力とは、一部の人間だけでなく国民全体の幸福を担保するものであり、総合的に考えていかなければならないものである。
競争力を持った企業が正当な利益を確保するためには、それを実現たらしめる社会の安定・発展を前提としている。したがって、適正利益を大きく上回る構造に依存するシステムが知らず知らずに形成されているとすれば、そのシステムは極めて歪な構造と言わざるを得ない。社会のバランスを崩し、社会を劣化させ、人心を荒廃させてしまうからだ。その結果、これに該当するLose-Lose(ルーズ-ルーズ)グループの人たちは、ますます分断され、取り残されていく。おそらく自己責任論が繰り返されるだけであろう。「誰一人取り残さない」は実現されない。
この歪な構造が企業全体、社会全体に蔓延すれば、おかしいものをおかしいと言えない“同調圧力”が、家庭でも、教室でも、企業内でも、社会全体でも強まっていき、息苦しさがと閉塞感が充満する。特に企業においては、とにかく売り上げ確保・売上喪失の回避が、サスティナビリティ(持続可能性)の名の下に絶対視され、コンプライアンスは後退りするのである。“残った者だけによる”持続可能性が「持続」していくのである。
この歪な構造が普通のことだとされてしまえば、企業は厳しい生存競争のなかで事業を展開しているのだからという口実の下、中には短期の利益に眼を奪われて、市民社会の社会規範と抵触するような行動を取る企業が出てくることも普通の現象として捉えられてしまうのである。企業はそのような社会の分断や社会の劣化の後押しなどは絶対に担ってはいけないのである。
一体何のためのコンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンス、CSR/CSV、SDGsなのか。何のための危機管理なのか。健全な企業経営が「企業危機管理」を充実・発展させ、健全な社会が「社会危機管理」を実現させる。そして、この両者の連携・結び付きが、社員の幸福(含.家族)と国民の幸福を実現するのである。一つの不祥事は、社員を決して幸福にはしない。社会の分断を促進するような経営施策は、自社のステークホルダーのみならず、国民全体を幸福にはしないのである。
さて、最後に一つどうしても触れておかなければならないことがある。それは政治との関係・距離感である。ロビー活動は企業に許容されているものであるが、そこには透明性が確保されていなければならない。自社や自業界の窮状を訴える場合は、広くマスコミも活用すべきだ。公の議論の中で、その妥当性が問われるべきである。これが“密室”の中で行われ、何らかの便宜供与と利益供与がなされるとすれば、とても許されるものではない。閉鎖的な“○○村”の存続・強化を陰で画策するようなことも許されない。
同様に大量の“天下り”を受け入れたり、政府の有識者会議等に自社や自業界の利害関係者を送り込んだりすることも、避けなければならない。今後は、それに対する説明責任を十分に果たすことが求められるはずだ。米国の“回転ドア”は、今では周知のことだが、日本でも似たような様相を呈している。レントシーキングやあからさまな利益誘導活動は、危機管理やCSRとは全く逆の方向であるとの認識が経営者には欠かせない。それが経営者の矜持たるものだ。“今だけ、カネだけ、自分だけ”と言われるようになっては終わりである。また、自国利益を阻害するような“売国的”政策も許されるはずがない。
国会では、ここ数年ロクな議論も経ずに、閣議決定だけで、重要法案が束ねられて、強行採決されている。その結果、増税や社会保険料を値上げしていく。また、多くの国で使用が規制されている食品添加物や農薬が、どういうわけか日本では認可されている。このように国益(含.国民の健康)が明らかに毀損されている状態で果たして健全な社会・国家が形成できるだろうか。その上に、弱者への皺寄せと犠牲の無視の上に成り立つような格差社会/分断社会が進展しているのである。
これを阻止するためには、企業市民と一般市民との強固な連携が必要なのだ。企業は常に経営理念に立ち返ることだ。そして時代の変化に合わせて、経営理念に頼りながらも、ときとして経営理念を助けていかなければならない。そして市民・国民は、物事や情勢を自分の頭でしっかりと考え、結果的に騙されることのないよう細心の注意を払う必要がある。新自由主義の後にはすぐに監視資本主義がくっ付いているとの指摘もなされている(含.マイナンバーカードに対する不安)。「個人危機管理」、「企業危機管理」、そして「社会危機管理」は全て連動している。これらが十分に機能し続け、全ての懸念が実現しないことを願うのみである。
第三回 おわり