SPNの眼
総合研究部 上級研究員 安藤未生
第1回
0.はじめに:「捨てられていた国旗でトイレ掃除をすること」の是非
1.企業不祥事の原因はつまるところ「風土」「体質」「文化」
2.世の中の「空気」の変化
第2回
3.「安全」が意味するものとは
(1)「トラウマ」が精神医学の範疇を超えた
(2)Z世代の「安全イズム」とその弊害
(3)「安全イズム」と「心理的安全性」は違う(企業とZ世代がかみ合っていない?)
4.何故、人間は敵と味方に分かれるのか
(1)部族意識(トライバリズム)の存在
(2)「部族スイッチ」の構成要素
(3)人間の特性を踏まえた企業の対応
5.道徳は人間を幸福にも不幸にもする
(1)道徳感覚(心理的過程)を説明する「人間関係モデル」
(2)「人間関係モデル」の2つの側面(暴力を許さない側面と許す側面)
(3)「人間関係モデル」を上手く使いこなすべき
第3回
6.人へ投資する際の尺度とは
7.企業はどの人権を守るのか
8.道徳的・宗教的タブーを超えた平和的な解決のために
※本稿は全3回の連続掲載記事です。今回は上記3.~5.を掲載します。
3.「安全」が意味するものとは
前回、世の中の「空気」の変化の例として、キャンセルカルチャーについてご紹介しました。九州大学大学院法学研究院の成原慧准教授によると、キャンセルカルチャーとは「英語圏では、『非難を表明し社会的圧力を行使する方法として集団でのキャンセルに携わる実践または風潮』や、『文化的に受容できない思想を促していると考えられる個人や組織等に対して、公然とボイコットし、排斥し、または支援を取りやめる行為または実践』などと定義ないし説明されている。『キャンセル』という語の用法には、SNSでの批判の殺到から、出版や講演の中止、解雇、友人からの絶交までさまざまな方法や態様のものが含まれる」とされています。[1]
教育における個人の権利のための財団(FIRE)の会長兼CEOのグレッグ・ルキアノフ氏と、社会心理学者のジョナサン・ハイト氏は、著書『傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体』において、アメリカの大学でキャンセルカルチャーが広まった要因を世代にスポットを当てながら社会学的・心理学的に分析しています。その中で言及されているのは、「安全(safety)」の意味合いが時代とともに変わっていることです[2]。今回は、「安全」の意味合いがどのように変化し、それが企業にどのような影響を与えるのかについて、ご紹介します。
(1)「トラウマ」が精神医学の範疇を超えた
オーストラリアの心理学者ニック・ハスラム氏は、虐待、いじめ、トラウマ、偏見など、臨床心理学や社会心理学において鍵となる概念を取り上げ、それらの用いられ方が1980年代以降どのように変化してきたかを考察しました。その結果、これらの概念の意味する範囲が、2つの方向に拡大していることを発見しました。2つの方向とは、それほど深刻でない状況にも徐々に適用されるようになる「下向き」への広がりと、概念的に関連する新しい現象をも包含するようになる「外向き」への広がりです。これらの概念が広がっているということは、「企業が従業員を守らなければならない範囲」も広がっていることを意味します。[3]
精神医学の代表的な解説書「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」の初版と第2版では、「トラウマ」は、身体的ダメージを引き起こす物理作用を言い表すときにだけ用いられていて、この当時の精神科医は、今でいう外傷性脳腫瘍のような場合を「トラウマ」と呼んでいました。ところが、1980年の改訂版(DSMⅢ)では、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が精神疾患として認められていて、身体的ではない外傷性負傷の初めての例となっています。PTSDは、常軌を逸した恐ろしい体験によって引き起こされる疾患ですが、その体験がPTSDと診断されるレベルにあるかどうかについては、現在でも厳しい基準が設けられています。つまり、「ひどい苦痛を伴う症状をほぼすべての人に引き起こし」、「人が普通に体験する範疇を超えている」ものがトラウマ的な出来事とみなされ、それは主観的基準でははかれず、多くの人に深刻な反応を引き起こすものとされています。具体的には、戦争、レイプ、拷問などが該当しますが、離婚や死別(配偶者の自然死など)は、たとえ予期しないものであっても、人が生きていく中ではよくあることなので該当しません。[4]
ところが、2000年代の初期までに、治療共同体(薬物依存や精神疾患などの生きづらさを抱えた人たちが共に暮らし、回復に向けて対話のある共同体をつくり上げ、人間性の発達を促進するプログラム)の一部で「トラウマ」の概念が下向きに拡大し、「身体的または感情的に傷ついたものとして個人が体験し、(中略)個人の機能、ならびに精神的、身体的、社会的、感情的、あるいはスピリチュアル的な健康に持続的な悪影響を及ぼす」ならどんなものでもよしとされるようになりました。つまり、トラウマか否かを判断する上で「傷ついた」との主観的な体験が大きな意味を持つようになったのです。[5]
ハスラム氏が調査したほとんどの概念に、トラウマと同様、主観的基準への移行という重大な変化が起きていました。何がトラウマやいじめ、虐待に当たるのかを判断するのは他の誰かではなく、当事者がそう感じるのなら、その感情を信じればよいとされるようになったのです。つまり、ある出来事が精神的苦痛だった(または、いじめられた、虐待された)と訴える人がいれば、その個人的な判断だけで十分な根拠とみなされるようになっていきました。[5]
国際労働機関(ILO)の「仕事の世界における暴力およびハラスメントの撤廃に関する条約」において、仕事の世界における暴力とハラスメントは人権侵害あるいは虐待の一形態であると位置付けられています(和訳では「虐待」という言葉はありませんが、原文には虐待の意の「abuse」が用いられています)[6][7]。したがって、ハスラム氏が調査した概念はハラスメントと密接不可分と言えますから、(法律上の定義に該当するか否かは別として)世の中の人々が考えるハラスメントの範囲が主観的基準で判断されていると言えるでしょう。
(2)Z世代の「安全イズム」とその弊害
近年、アメリカの大学では、講演者がキャンパス内に存在するだけで「危険」という考えが広まり、講演者の招聘を取り消そうとする「講演キャンセル(disinvitation)」という取り組みが一般化しました。教育における個人の権利のための財団(FIRE)が2000年以降に計画された講演キャンセル数を追跡していて、計画された379件のうち約46%は実際に講演者の招聘がキャンセルされるか講演会が中止されています。また、実際に開催された講演の約3分の1が、程度の差はあるものの、抗議者によって混乱がもたらされています。講演キャンセルを正当化するためによく用いられる理屈としては「講演者が一部の学生を不愉快にする、調子を悪くする、または怒りを感じさせるのなら、その講演者はその学生たちに『危険』をもたらすため、その講演者の大学からの締め出しが正当化される」というもので、まさしく大学内でのキャンセルカルチャーです。これは、傍から見ると「講演会に行かなければ済む話ではないのか」や「何故、そうまでして自分とは異なる意見を危険視するのか」と思うような話ですが、「大学生は“攻撃的な”思想にさらされるべきではない」との考えが、今やアメリカのキャンパスの多数派を占めています。2017年には、アメリカの大学生の58%が「攻撃的で受け入れられない思想にさらされない大学コミュニティの一員であることが大切」と回答しています。[8]
アメリカの大学において、上記のような風潮が広がりを見せ始めたのは、Z世代(1990年代後半以降に生まれた世代)が入学し始めた2013年あたりからです。サンディエゴ州立大学心理学教授で、世代論の第一人者であるジーン・トゥウェンジ教授は、1995年生まれあたりで、突如、はっきりとした断絶が見られることを発見しました。トゥウェンジ教授は、Z世代を「インターネット世代(internet Generation)」を略して「iGen(アイジェン)」と呼んでいますが、日本では「Z世代」の方が定着していると思いますので、本稿では「Z世代」と呼ぶことにします。トゥウェンジ教授は、Z世代が、それ以前に生まれた世代であるミレニアル世代(おおよそ1980年代前半から1990年代前半までに生まれた世代)と比べて、不安症やうつ病の罹患率、および自殺率がはるかに高い事実を発見しました。何かがZ世代の体験を変えたのです。トゥウェンジ教授が着目するのは、2007年にiPhoneが世に出てからのSNSの急成長です。2011年頃には、10代の若者のほとんどが数分おきにSNSをチェックできる環境にあり、実際に多くの若者がそうしていました。[9]
トゥウェンジ教授によると、Z世代は「安全であることに夢中」で、ここでいう安全には「感情の安全」が含まれます。「感情の安全」を重視するあまり、「車の事故や性暴力だけでなく、自分と意見を異にする人たちからも安全であるべき」と考える人がたくさんいるというのです。これをルキアノフ氏とハイト氏は「安全イズム」と呼んでいます。「安全イズム」とは、安全に固執することであり、安全を脅かすもの(現実のものも想像上のものも含む)を取り除くことに夢中になり、他の現実的かつ道徳的な問題による合理的な必要性があっても、安全について妥協しなくなることです。危険をもたらす可能性がどれだけ低く、些細なものであっても、「安全」が他のものを凌駕してしまうのです。[9]
誤解のないように申し添えると、Z世代に非があるのではなく、保護者や教育者たちがZ世代を過剰に守り過ぎてしまっているのです[9]。トゥウェンジ教授によると、Z世代は、親の目の届かないところで過ごした時間やオフラインの人生経験を積んだ時間が、それまでの世代よりも少なくなっています[10]。人間の免疫系は、あえて少量の脅威にさらされることで、同じ脅威にさらされても回避できるように学習する仕組みになっています。敢えて少量の細菌やウィルスにさらされることで、免疫ができて健康になっていくのです。発達心理学者のアリソン・ゴプニック氏は「まわりの環境がどんどん清潔になり、抗生物質も手に入り、屋外での遊びも激減し、今の子どもは昔の子どものように病原菌にさらされていません。そのため、実際には脅威とならない物質にも過剰反応する免疫系がつくられ、アレルギーを引き起こしやすくなっているのです。これと同じで、子どもをありとあらゆる危険から守り抜こうとすると、まったく危険性のない状況にも大げさに恐怖心を示すようになり、1人の大人として生きていく力をいつかは獲得しなければならないのに、なかなか身につけられないのです」と説明しています。[11]
ストレス要因、リスク、少量の痛みを回避する弊害について、ニューヨーク大学リスク工学のナシーム・ニコラス・タレブ教授は、反脆弱性(antifragile)について言及しています。経済や政治における重要システムの多くは、学習、適応、成長するために、人間の免疫系と同じで、ストレス要因や試練が必要なのです。こうした反脆弱性のシステムは、挑んでくるものや活発な反応を迫るものがないと、硬直し、軟弱で、非効率になります。タレブ教授は「1か月も寝たきりでいると、ストレス要因がなくなり、筋肉は痩せ衰え、複雑なシステムは弱体化し、停止することもある。現代の構造化された世界のほとんどは、トップダウン型の政策やからくりによって私たちを傷つけてきた。それはまさに、システムの反脆弱性への侮辱である。これは現代の悲劇だ。神経質すぎるほど過保護にする親のように、手を差し伸べようとする者たちが、実は最も有害となっている場合がある」と述べています。生きていく上でリスクやストレス要因は当然避けられないものですから、子どもたちがそうした経験から学び、成長し、持ち前の反脆弱性の能力を伸ばしてあげることが保護者や教育者たちの務めなのでしょう。「動揺させてはいけない」と、様々な経験から子どもたちを守ろうとしてばかりいると、いざ保護の傘から外れたときに、そうした事象に対処できない人間になってしまいます。[12]
「(心的)外傷後成長」に関する研究によると、暴力に耐え抜いていた人たちが、日常生活に織り込まれているトラウマ体験を想起させるものに慣れていくことは大切なことです。苦痛を思い起こさせるものを避けるのは、PTSDの症状であって、治療ではありません。トリガー警告(トラウマ等を呼び起こしかねないことを伝える事前警告)について、ハーバード大学心理学部のリチャード・マイナリー臨床実習局長は「トリガー警告はトラウマ体験を想起させるものを回避しようとするもので、治療に逆行しています。回避したところでPTSDの症状は変わりません。授業の内容がきっかけで激しい感情的反応があったのなら、それは自分の心の健康を優先しなさいとの信号です。医学的エビデンスに基づいた認知行動療法を受け、PTSDの克服に努めるべきです。認知行動療法では、段階的かつ体系的に、トラウマとなっている記憶にあえてさらすということを、苦痛を引き起こす力が弱まるまで続けます」と言及しています。認知行動療法では、患者が動揺を覚えるものにあえて触れさせ(想像させる、写真を見せるなどで少しずつ始めて)、恐怖心を起こさせ、刺激に慣れさせていきます。[13]
逆に、些細な脅威をも回避する安全イズムは、反脆弱性のある精神に必要な経験を奪い去るため、より脆弱で、不安感に苛まれ、被害者意識の強い若者を生んでしまいます。「安全」という概念が、身の危険と感情面での苦痛を同等に扱うところまで拡大すると、たくましく健全な人間となるために必要な、日常生活に埋め込まれている経験そのものからも、組織的に互いを守ることを促してしまいます。安全イズムの文化で育つ子どもは、「感情的に安全」でいるように教えられ、考えられる全ての危険から守られるため、脆弱性を強め、頑健性を失ってしまいます。それがきっかけとなって、大人はさらに守ってやろうとします。そうすると子どもたちはさらに脆弱性を強め、頑健性を失う…という悪循環に陥るでしょう。人間の免疫系のように、試練やストレス要因に、適度にさらされないと、たくましく有能な大人に成長できず、自分の考えや道徳的信念に挑む人々ないし思想に生産的に関われなくなります。[9]
この安全イズムの存在は、企業に無関係ではありません。安全イズムの中で育ってきたZ世代以降の世代が続々と入社してきているわけですから、これらの世代が「安全」をどう捉えているかを、企業側も認識しておかなければなりません。安全イズムの蔓延は、安全の議論が主観的な感情論になってしまうことを意味しているため、(良い悪いは別として)企業に求められる「従業員の安全を守る」範囲の拡大に発展するでしょう。ここでも、第1回でご紹介した、論理的に説明できない道徳上の問題が出てくるのです。さらに、安全イズムによる「自分と意見を異にする人たちからも安全であるべき」との発想から、反対意見に生産的に関われなくなるため、社内で反対意見も尊重しながら生産的な議論をするといったことも難しくなっていくかもしれません。
(3)「安全イズム」と「心理的安全性」は違う(企業とZ世代がかみ合っていない?)
近年、企業のパフォーマンスを高めるために「心理的安全性(psychological safety)」が注目を集めています。「チームの心理的安全性」という言葉を生み出したハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・C・エドモンドソン教授によると、チームの心理的安全性とは、チームのメンバーが、リスクを冒し、自分の考えや懸念を表明し、疑問を口にし、間違いを認めてもよく、そのいずれをもネガティブな結果を恐れずにできると信じていることです。エドモンドソン教授曰く「率直であることが許されるという感覚」です。逆に、心理的安全性がない状態は、ストレス、燃え尽き症候群、高い離職率など、従業員のウェルビーイングや組織全体のパフォーマンスに悪影響を与えるといったマイナス面があることが分かっています。[14]
心理的安全性が重要な理由は以下のとおりです。
- 心理的安全性によって、チームメンバーは自分の貢献が重要であると感じ、報復を恐れることなく発言できるため、エンゲージメントとやる気が向上する。
- 心理的安全性はよりよい意思決定につながる。なぜなら、メンバーは意見や懸念を安心して口にすることができ、チームにおいて多様な見解に耳が傾けられ、検討されるようになるからである。
- チームメンバーが互いの失敗を共有し、そこから学ぶことができるため、継続的な学習と改善の文化が育まれる。[14]
エドモンドソン教授は、チームに心理的安全性があるかどうかを評価できる7項目の簡単なアンケートを開発しました。この7項目を見れば、心理的安全性がある状態を具体的にイメージできます。
- このチームでは、ミスをしても責められることはない。
- このチームのメンバーは、問題点や難しい課題を提起することができる。
- このチームでは、人と違うことを受け入れることもある。
- このチームでは、リスクを冒しても安全性が保たれる。
- このチームでは、他のメンバーに助けを求めやすい。
- このチームでは、意図的に私の努力を損ねるような行動を取る人はいない。
- このチームのメンバーと一緒に仕事をしていると、私にしかないスキルや才能が評価され、活かされる。[14]
さて、心理的安全性の「安全」と、前述の安全イズムの「安全」が、全く違うことにお気づきでしょうか。心理的安全性は「率直であることが許されるという感覚」であり、組織の中で多様な意見が表明され、闊達な議論を生み、パフォーマンスの向上につながることを目的としています[14]。つまり、率直に意見を表明するための安全なのです。他方、安全イズムとは、安全に固執することであり、安全を脅かすもの(現実のものも想像上のものも含む)を取り除くことに夢中になり、他の現実的かつ道徳的な問題による合理的な必要性があっても、安全について妥協しなくなることです[9]。安全イズムの「自分と意見を異にする人たちからも安全であるべき」という発想が、キャンセルカルチャーという形で表面化しているように、むしろ多様な意見が表明されることが嫌煙されます。心理的安全性と安全イズムが目指している方向は真逆と言っても良いでしょう。
そうすると、企業にとっては困った事態を迎えます。企業がパフォーマンスの向上のために心理的安全性のある風土をつくろうと躍起になったとしても、Z世代をはじめとする安全イズムの下で育った世代のニーズとは全くかみ合わないため、最悪の場合、この世代の離職が誘発される可能性もあります。もしも、離職防止策の一環として心理的安全性のある企業風土をつくろうとしている企業があるなら、その企業にとっては思ってもみない皮肉な結果を迎えるかもしれません。
とは言え、企業が安全イズムに寄り添ってしまうと、企業内のキャンセルカルチャーの蔓延につながり、反対意見に生産的に関われなかったり、そもそも反対意見が表明されない組織が生まれたりすることで、心理的安全性のない状態となり、結局は従業員のウェルビーイングや組織全体のパフォーマンスに悪影響を与えます。当然ですが、企業は多様な背景を持った人たちで構成されていますので、利害が対立することは避けられません。それを踏まえて、企業としての着地点を見出す作業が必要になるはずですが、安全イズムはその作業を阻害する要因になりかねません。そうすると、企業としては、従業員が反対意見に生産的に関わり、反対意見を表明できるような職場づくりや社員教育を実施するなど、安全イズムへ抵抗した方が賢明でしょう。
4.何故、人間は敵と味方に分かれるのか
前項では、第1回でご紹介したキャンセルカルチャーが広まった要因について、世代にスポットを当て、「安全」の意味合いが時代とともに変わっていること[2]をご紹介しましたが、もう1つの要因として、私たち人間に予め備わっている部族意識(トライバリズム)の存在があります[15]。本項では、何故、人間は敵と味方に分かれるのかについて、道徳心理学や生物学の視点も取り入れながら人間の特性をご紹介したします。
(1)部族意識(トライバリズム)の存在
ポーランドの心理学者ヘンリ・タジフェル氏は、第二次世界大戦中にフランス軍に従軍し、ドイツで戦争捕虜となったり、ポーランドにいた家族全員がナチスに殺害されたりなど、当時のヨーロッパでユダヤ人として生きた経験から、人はどういう条件下で外集団のメンバーを差別するのかを理解するため、1960年代に「最小条件集団パラダイム(minimal group paradigm)」という一連の実験を行いました。この実験は最初に被験者を2つの集団に分けます。分け方の基準は、コイン投げなど取るに足らない恣意的なもので、今さっきまで存在すらしていなかった集団にもかかわらず、被験者たちは自分が属する集団に有利になるよう行動する傾向があることが明らかになりました。これについて、後年、様々な手法で実験が行われましたが、結論は同じでした。例えば、神経科学者のデビッド・イーグルマン氏が行った実験では、被験者たちがMRI装置に入る直前にコイン投げなどで無作為な集団をつくり、他人の手に針が刺される映像を見た脳の機能活動がどの部位で起きたかを画像化したところ、自分と同じ集団に属する人の手に針が刺される映像を見た場合、異なる集団に属する人の手に針が刺される映像を見た場合よりも、脳の痛みを司る部位が大きな反応を見せました。つまり、私たち人間は「他者」とみなす人たちにはあまり共感を示さない生き物なのです。[16]
人間の心には、部族意識(トライバリズム)が備わっています。人類の進化とは、各集団内で個々人が競争するだけでなく、集団と集団がときに暴力的に競争する歴史でもあり、私たちはこうした競争に上手く勝ってきた集団に属する人々の子孫です。社会心理学者のジョナサン・ハイト氏によると、部族意識とは、集団間の争いに備えて結束するという、人間が進化の過程で得てきた特性で、「部族スイッチ」(ハイト氏は「ミツバチスイッチ」と表現しています)がオンになると集団への結束がいっそう強まり、集団の道徳的文化を受け容れ、擁護し、自ら考えることを止めます。道徳心理学の基本原則に「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」があり、これは味方(us)と敵(them)の戦いで集団の態勢を整えるための策略として使われるものでもあります。「部族スイッチ」がオンになって部族モードになると、自分たちの物語に異議を唱える主張や情報に対して、理性を欠くようになるそうです。[17][18]
ただ、誤解のないように申し添えると、人間は「無条件に集団に従う、盲目的なチームプレイヤー」ではありません。特定の条件下で「部族スイッチ」のオンとオフを切り替え、部族意識が強まったり弱まったりするのです。ハイト氏は「人間の本性の90%はチンパンジーで、10%はミツバチ」と表現しています。「90%はチンパンジー」とは、人間が近隣の個体同士の情け容赦のない闘争を通じて心が形成された霊長類であるという意味で一種のチンパンジーであり、自分の評判を気にして道徳的な態度を装い、実際よりも徳が高い人間に見せかけ、自分を正当化しようとしますし、あとづけの理由を自らが固く信じ込み、自分には美徳が備わっていると独善的に考えます。他方、「10%はミツバチ」とは、人間が集団間の情け容赦のない闘争を通じて心が形成された生物という意味ではミツバチであり、集団を志向し、自らの根城を守るために共存し、協力し、他集団を出し抜いてきたのです。部族意識は、ミツバチのような振舞いとして表面化します(それ故に、ハイト氏は「部族スイッチ」ではなく「ミツバチスイッチ」と表現しているのです)。[19]
では、人間が部族意識を強めミツバチとして振る舞う「部族スイッチ」がオンになるのは、どのような条件下でしょうか。ハイト氏によると、現実的または感覚的に集団間の対立が起きると、すぐさま部族意識が強まり、他の人がどの集団に属しているかの合図に非常に敏感になり、裏切り者は罰せられ、敵と交わることが許されなくなります。これは、第1回でご紹介したキャンセルカルチャーの背景としても説明ができます。異なる人種間、異なるジェンダー間などの対立や、集団にとっての敵の存在が見い出されると、キャンセルカルチャーが広まりやすく、違反者を突き止め、それを大っぴらにバッシングすることで、自らが高い評判を得られるのです。違反者と個人的に親切に接したところで何の得にもならず、むしろ敵と結託しているとみなされる恐れもあります。SNSが強い影響力を振るっているのは、SNSが観衆に訴えかける手軽な方法であり、キャンセルカルチャーに簡単に加勢できる手段でもあるからでしょう。[20]
(2)「部族スイッチ」の構成要素
生物学の視点から「部族スイッチ」の構成要素を説明すると、オキシトシンとミラーニューロンの存在が挙げられます。オキシトシンは、母になる準備を整えるためのホルモンで、脊椎動物に広く見られます。さらに、オスがメスのそばを離れない種や、子を守る種においては、オスの脳は、他の種よりもオキシトシンに対する反応がわずかに向上しています。特に人間の場合、オキシトシンの効果は家族関係をはるかに超えています。オキシトシンは「愛情ホルモン」などとも呼ばれていますが、集団の内外にかかわらず、あらゆる人々を愛するためのホルモンではありません。その正体は、他集団とより効率的に競えるように、自らをパートナーや自集団に結びつけるためのものです。例えば、オランダ人の男性たちに、コンピューターを介してやり取りする小チームを組ませ、ある種の経済ゲームを行わせた実験では、半分の被験者の鼻にはオキシトシンを、もう半分の被験者には偽薬を噴霧したところ、オキシトシンを噴霧された被験者は利己的な決定をあまり下さず、自チームに貢献しようとしたのですが、他チームの結果の改善には何の興味も示しませんでした。[21]
ミラーニューロンは、他者のある動作を見たとき、自分もその動作をしているかのように反応する神経細胞です[22]。ミラーニューロンは、イタリアの科学者チームが、1980年代に霊長類のマカクを対象に行った実験で、研究者が親指と人差し指で何かをつまんだとき、マカクはじっとしていたにもかかわらず、脳内で身体の微細なコントロールをする神経細胞(ニューロン)が反応したのです。これは、マカクが自分で何をしているのか、それとも別の誰かが同じ動作をしているところを見ているのかを問わず神経細胞が反応したということです。つまり、マカクは自らの動作を処理するのに用いる脳の領域と同じ部位を使って、他の個体が実行する同じ動作を模倣(ミラー)していたのです。人間のミラーニューロンも、マカクの研究でその存在が確認された脳領域に対応する箇所で発見されていますが、人間の場合、情動に関係する脳領域とより強い繋がりを持っています。これは、人間は互いの苦痛や喜びを、他の霊長類よりもはるかに強く感じていることを意味します。例えば、誰かが微笑んでいるところを見ただけで、自分が微笑んだときに活性化する神経細胞が反応します。AさんがBさんに微笑みかけると、Bさんの脳も幸せな気分に満たされて微笑みたくなり、それがまた別のCさんの脳に伝わっていくのです。[23]
ただ、人間はミラーニューロンによって目に入った全ての人に共感するのではありません。神経科学者のタニア・シンガー氏率いるチームが行った実験では、被験者に初対面の2人と経済ゲームをさせ、2人のうち1人は被験者に友好的に、もう1人は利己的にプレイさせました。そして、被験者の脳をスキャンしながら、被験者、被験者に友好的なプレイヤー、利己的なプレイヤーのいずれかの手に、互いに見えるように無作為に軽い電撃を与えたところ、被験者の脳は、自分に友好的なプレイヤーが電撃を受けると、自分が受けた場合と同じ様態で反応しました。これに対し、利己的なプレイヤーが電撃を受けたときには、被験者が共感をあまり示さず、喜びを感じる場合すらあるという結果になりました。この実験結果は、私たち人間は、自分の味方だと判断した人にのみ共感し、その行動を模倣しますが、敵だと判断した人には共感をあまり示さずに、むしろ敵の不幸に喜びを感じることが多いことを示しています。[24]
(3)人間の特性を踏まえた企業の対応
企業としては、上記のような人間の特性を理解しておく必要があると考えられます。人間の特性を理解し、それを踏まえた施策を講じることも、コンプライアンス・リスク管理の一環だからです。「部族スイッチ」をオンにして部族意識(トライバリズム)を強めてしまうと、キャンセルカルチャーの蔓延など、企業にとって良くない事が起きるのであれば、オンにしないような施策を講じたり、オンにしたとしてもオフに切り替える施策を講じたりすることが必要です。ハイト氏は、「トライバリズムが備わっているからと言って、部族的に生きる必要はない。(中略)平和や繁栄がもたらされている条件下では、トライバリズムが弱まるのが通例で、他の人がどの集団に属すのかを見張る必要はなく、集団の一員としての期待に応えなくてはとプレッシャーを感じる必要もない。あるコミュニティがうまく全員の部族回路を弱められれば、各人が自らの選択で生きられる余地が生まれ、人々と思想が創造的に混ざり合う自由度も広がる」と述べています[25]。
5.道徳は人間を幸福にも不幸にもする
前項では、道徳心理学の基本原則「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」について、部族意識(トライバリズム)、オキシトシンやミラーニューロンの存在など、人間の特性と関連させながらご紹介しましたが、道徳には「人々を結びつける」メリットがあると同時に「盲目にする」デメリットもあります。道徳は、人間を幸福にしますが、不幸にもするのです。
(1)道徳感覚(心理的過程)を説明する「人間関係モデル」
ハーバード大学心理学教授で、認知科学者及び進化心理学者のスティーブン・ピンカー教授は、著書『暴力の人類史 下』において、人が何をもって道徳的だと「経験」するのかという心理的過程の問題として「道徳感覚」に着目しました。ピンカー教授は、道徳感覚を理解するための多様なモデル(体系)がある中で、人類学者のアラン・フィスク氏が考案した「人間関係モデル」が最も有益だと考えていますので、本稿でもご紹介します。これは、道徳観が後述する4種類の人間関係モデルから発しているという説で、それぞれのモデルによって、人々が自分たちの関係性をどう捉えているかが異なっています。この説が明らかにしようとしていることは、
- 社会において人々が資源をどう配分しているのか
- 人々の道徳的強迫観念は人間の進化的な歴史のどこから来ているのか
- 道徳は社会によってどのように異なるのか
- 人々はどうして道徳を都合良く使い分けできて、その道徳をタブーで守れるのか
ということです。[26]
① 「共同的分かち合い」
この「共同的分かち合い」の考え方を採用している場合、人々は集団内で進んで資源を分け合い、誰がどれだけ得したり損したりしているかを全く気にかけません。集団の概念を、共通の本質によって統一された「一心同体」と捉え、それが汚染されないように守らなければならないという発想になります。したがって、その統一という直感を強化するために、絆と結合を深める儀式として、身体的な接触をしたり、ともに食事を囲んだり、感情的な経験を共有したりします。また、その統一感を合理化するために、「祖先が共通である」や「同じ土地に根差している」といった神話を利用します。この共同関係は、子どもの世話、血縁選択、相互扶助から進化したもので、少なくとも部分的には、前述の「部族スイッチ」の構成要素としてご紹介した、脳内のオキシトシン系で実行されているとピンカー教授は考えています。[27]
② 「権威序列」
「権威序列」では、支配力、地位、年齢、強さ、富、先行順などによって定義される直線的な階層(ヒエラルキー)の下、上位者は何でも欲しいものを得て、下位者から貢ぎ物を受け、下位者に服従と忠誠を命じる権限がありますが、その一方で、下位者を保護するために責任を果たす義務があります。これは、霊長類の優劣順位制から進化したもので、部分的には脳内のテストステロン感知回路で実行されるとピンカー教授は考えています。[28]
③ 「平等対等」
「平等対等」では、資源を均等に配分するための仕組みを採用して、例えば、優先権を交代制にしたり、コイン投げで決めたり、分け前を平等にしたりします。チンパンジーには初歩的な公平意識があると見られていて、少なくとも自分が誤魔化された時は公平意識を発揮します。「平等対等」の神経基盤は、意図、騙し、不調和、視点取得、計算などを記録する脳の部位(島、眼窩皮質、帯状皮質、背外側前頭前皮質、頭頂葉皮質、側頭頭頂接合部など)を包含します。「平等対等」は、私たちの公平感と経済感覚の基盤であり、人々を親友や義兄弟としてよりも、隣人、同僚、知り合い、取引相手として結びつけます。[29]
④ 「市場値付け」あるいは「合理合法」
フィスク氏の「市場値付け」は、通貨、価格、給料、手当、利子、クレジット、デリバティブなど、現代経済を動かしているものについてのシステムで、数字、数式、デジタル転送、正式契約言語に依存します。「市場値付け」は、読み書き能力、計算能力、近年発明された情報テクノロジーに依存するため、上記の他の3つの人間関係モデルと異なり、普遍的とはほぼ遠いものです。ピンカー教授は、「市場値付け」が市場とも価格設定とも結びついていないため、別の公的な社会機構と結びつけられるべきと考えました。別の公的な社会機構とは、民主主義という政治装置であり、民主主義の下では、権力が強者(権威)にあてがわれるのではなく、公的な投票手続きによって選出された代表者に与えられ、その代表者の持つ特権は法体系によって厳密に定められています。そして、企業、大学、非営利組織も、そうした機構の1つであり、そこで働く人々は自分の友人や親戚を好き勝手に雇うようなこと(共同的分かち合い)はせず、役得や利権を恩恵として分け与えること(平等対等)もせず、受託者義務と規定によって拘束を受けています。フィスク氏自身も、「市場値付け」の知的インスピレーションの1つは社会学者マックス・ヴェーバー氏による「合法的支配」の概念だと述べています。「合法的支配」とは、ヴェーバー氏が考えた社会の支配類型の1つで、理性によって案出され、公式の規則によって実行される規範体系のことです。これに基づき、ピンカー教授は、「市場値付け」よりも「合理合法」の方が、より一般的な言葉だと述べ、フィスク氏の理論に修正を加えています。[30]
道徳感覚のまとめ方や分け方については、フィスク氏の人間関係モデルの他に、人類学者のリチャード・シュウェーダー氏の3つの倫理体系(「神性」「共同体」「自主性」)、ハイト氏の5種類の道徳基盤(「純粋性/神聖性」「内集団忠誠」「権威/尊敬」「危害/温情」「公正/互恵」)があります。シュウェーダー氏、ハイト氏、フィスク氏の理論は、まとめ方や分け方の違いはあるものの、いずれも道徳感覚がどう働くかについては一致しています。日常的な善悪を黄金律や定言命法で定義している社会は1つもなく、全ての社会では、いずれかの人間関係モデル(あるいは倫理、道徳基盤)を尊重するか侵害するかが決め手となっています。つまり、
- 連合を裏切ったり悪用したり転覆させたりするかどうか
- 自分自身や自分の属する共同体を汚染するかどうか
- 正当な権威を無視したり侮辱したりするかどうか
- 挑発されてもいないのに誰かに危害を加えたりするかどうか
- コストを払わずに利益だけを得ようとするかどうか
- 基金を着服したり特権を濫用したりするかどうか
によって、道徳的であるか否かが判断されるのです。[31]
(2)「人間関係モデル」の2つの側面(暴力を許さない側面と許す側面)
人間は必ずしも、前述の道徳感覚を形成する人間関係モデルのいずれかに準じて互いと関わっているわけではありません。そうした状態を、フィスク氏は「空白関係」もしくは「非社交的関係」と呼んでいます。どの人間関係モデルにも属さない人間は、非人間(人間の本性の根本的な特徴を持たないもの)とみなされ、生命のない物体のように扱われます。つまり、周りの好きなように無視されたり、利用されたり、食い物にされたりするということです。これを突き詰めると、「空白関係」もしくは「非社交的関係」は、捕食的な暴力(征服、レイプ、暗殺、子殺し、戦略爆撃など)を許すことになります。人間関係モデルに属するということは、少なくとも、属する人間の利益を多少は考慮に入れられるため、いずれかの人間関係モデルに属して、その庇護下にいた方が良いと考えられます。ただ、人間関係モデルは、いずれも必然的に、関わり方のルールに違反した人間は道徳的に罰せられることになりますが、モデルごとにどういう種類の暴力が正当化されるかが異なっています。[32]
人間関係モデル | 非暴力・平和的な側面 | 暴力的な側面 |
---|---|---|
共同的分かち合い | (集団内のメンバーに限った)同情や思いやり | 部外者に対する嫌悪や蔑みによって、部族・人種・民族・宗教に基づいたジェノサイド的イデオロギーに繋がる |
権威序列 | 上位者が下位者に対して保護や支援を与えなければならないという責任感によって、君主が臣民を守るという平和化のプロセスに繋がる | 無礼な態度や反抗的な態度、不服従、反逆、不敬、異端、冒涜などに対して、暴力的な罰を与えることが正当化される |
平等対等 | 相互交換の義務によって、関係者に互いの存続と幸福を無視させない/愛情で結ばれていない取引関係であっても、互いを尊重しようとする | しっぺ返し的な報復に合理的な正当性を与え、「目には目を歯には歯を」のように、刑罰を(抑止としてではなく)当然の報いとして認める |
市場値付け(合理合法) | 計算された釣り合いを通じて、度が過ぎる暴力を減らしたり、最大多数の最大幸福を計算したりしようとする | 市場経済による利益追求によって、人身売買、砲艦外交など、他人の身体や財産を搾取的に利用することに繋がる |
※上表は、ピンカー教授の著書『暴力の人類史 下』を参照してコンパクトに整理したものです。[33]
(3)「人間関係モデル」を上手く使いこなすべき
フィスク氏によると、人間関係モデルは、多かれ少なかれ、進化、幼児の発達、歴史上に登場する順番に沿って並べることができます。①共同的分かち合い⇒②権威序列⇒③平等対等⇒④市場値付け(合理合法)の順です。特に、市場値付け(合理合法)は、バランスの計算、民主主義、最大多数の最大幸福などとリンクしていますから、20世紀から見られる暴力の減少の背景になっていると考えられます。つまり、刑罰が粗暴な報復欲から脱却して、一定の基準の下で調整された抑止策へと再設計されたり、国際的な挑発に対して報復攻撃ではなく経済制裁や封じ込め政策で応じるようになったりしたように、市場値付け(合理合法)は暴力を全体的に最小限にする方向に向かう考え方なのです。[34]
とは言え、共同的分かち合い、権威序列、平等対等は、前述のとおり脳の働きと密接不可分で、人間の本性の一部をなすものですから、それらの影響を封じ込めようとしても、人間はそれを常に感じずにはいられません。そもそも、人間関係モデルは、複数のモデルが組み合わさって根付くこともあり、実際に、市場値付け(合理合法)は他のモデルを戦略的に併用しています。例えば、
- 共同的分かち合いのモデルを、家族・部族・国家といった枠を超え、市場値付け(合理合法)と組み合わせて、全人類を対象にした共同体が採用しているなら、共同的分かち合いのモデルは、人権という抽象的な原則を感情的に支える役目を果たせます。
- 権威序列のモデルだけなら、酷い暴力を阻止するため、国家に独占的な暴力行使の権限が付与されるかもしれませんが、市場値付け(合理合法)と組み合わさることで、民主的なチェック機構や三権分立などで別の権威に埋め込むことができます。[35]
近年、このような人間関係モデルを上手く使いこなして、平和に役立てられないかを探る研究が行われています。詳細は次回ご紹介しますが、ピンカー教授は、この研究結果と関連して「人間の道徳感覚は、必ずしも平和の妨げになるわけではない。しかし神聖性とタブーの心理が野放しにされている場合には、道徳感覚が障害になりうる。この心理をきちんと制御して合理的な目標に向け直せば、そのときにこそ、真に道徳的と呼ぶことのできる結果が生まれるだろう」と述べています。[36]
また、ピンカー教授は、20世紀後半から平和がもたらされた背景として、近代科学が生んだ新たな知能について言及しています[37]。次回は、企業として、どのような知能を持った人に対して投資をするべきかを考察します。
参照文献
- 成原 慧『キャンセルカルチャーと表現の自由』九州大学付属図書館 (オンライン) 2022年12月21日(引用日: 2024年2月21日)
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.37-55.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.45-46.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. p.46.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. p.47.
- 国際労働機関(ILO)2019年の暴力及びハラスメント条約(第190号)国際労働機関(ILO)Web ページ(オンライン) (引用日: 2024年3月19日)
- 近江 美保 ILO「暴力およびハラスメント撤廃条約」について 国際法学会ホームページ(オンライン)2020年1月21日(引用日: 2024年3月19日)
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.76-78.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.52-55.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.208-209.
- グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 傷つきやすいアメリカの大学生たち――大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体. 新宿区 : 株式会社草思社, 2022. ISBN978-4-7942-2615-0. pp.39-41.
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- エイミー・ギャロ『心理的安全性とは何か、生みの親エイミー C. エドモンドソンに聞く 成長し続けるチームを育てる土台』 Harvard Business Review (オンライン) 2023年4月14日(引用日: 2024年3月7日)
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- ジョナサン・ハイト 社会はなぜ左と右にわかれるのか―対立を超えるための道徳心理学. 新宿区 : 株式会社紀伊國屋書店, 2014. ISBN978-4-314-01117-4. pp.345-360.
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- スティーブン・ピンカー 暴力の人類史 下. 千代田区 : 株式会社青土社, 2015. ISBN978-4-7917-6847-9. pp.498-534.
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