“ポスト真実”時代の企業広報(9)~危機管理の視点から~(2018.2)
2018.02.28
メディアとプラットフォームの影響
さて、本連載も今回が最終回となる。”ポスト真実”時代に錯綜するフェイクニュースのなかで、稚拙な悪戯や風刺やパロディを抜きにすれば(但し、これらも特定権威を執拗に対象にすれば悪意が増すため、表現の自由として看過・容認するのは難しい判断である)、フェイクニュースのコンテンツはほとんどが政治に関わるものである。
それらが、如何にして企業活動に影響を与え、リスクとして顕在化しているのかを整理しておく必要がある。ネット時代においては、企業もまた、情報発信者であり、受信者でもある。これは企業がメディアとプラットフォームとの間を浮遊・迷走している様にも見える。
プロの記者であっても誤報(意図したものと意図しないものの両方)があるのだから、SNSを主な舞台としたフェイクニュースの作成者や拡散者には、多様な悪意ある動機や金銭目的があることはすでに確認してきた。しかし、これまで幾度となく述べてきたように限界や無理があるとしてもフェイクニュースの関与者には、常識や倫理観を持ってもらわなければ困る。それらが野放図で良いわけがなく、EU諸国のような罰則を含む法制化措置も講じる必要も検討に値するだろう。
企業側の関与は一旦措くとして、フェイクニュースが展開されるのは、旧来ビジネスモデルを脱し切れないメインストリームメディア(課金システムも含めてネット配信にシフトしてきているが)とプラットフォーム(主にグーグルとフェイスブック)との間でのことである。もともとウェブメディアには責任主体がはっきりしていなかっただけに、無責任なフェイクニュースが罷り通る土壌があったことは否めない。
それが2016年の米大統領選を契機にフェイクニュースが、社会的にも国際的にも大きな問題となり、ソーシャルプラットフォーム側もコンテンツ配信の判断に関して、一定の責任を負うべきとの論調が盛り上がってきた。上掲の二大プラットフォーム企業もこれまで、フェイクニュースサイトがデジタル広告によって、マネタイズできない仕組みを導入はしてきた。しかし、それらは十分な成果を上げていない。ソーシャルプラットフォームの構造には、お手軽で質の悪いコンテンツが拡散する要因が内在しているからである。
従来メディアが得意とする調査報道とそれを支える公共性を備えたジャーナリズムはコスト高であり、拡散範囲が狭いと見なされているのだ。
さらにプラットフォーム側は、自らをメディアであるとは認めない(同時に媒体社としての位置付けも不明確)。したがって、編集・ジャーナリズム視点が欠けている。その視点はソーシャルプラットフォームエディターが重視する視点とは、やはり異なる。その上にアルゴリズムの不透明さは相変わらずである。プラットフォーム側は、このアルゴリズムを開示していないばかりか、変更することもよくある。
また、Web広告の進化と多様化は目覚ましいものがあるが、その収入のほとんどが大手プラットフォームの寡占状態にある。グーグルやフェイスブック並みの巨大企業になると、通常の企業のCSRなどは通用しないし、当て嵌まらないのかもしれない。
すでにグーグルとフェイスブックは、検索エンジンとソーシャルメディアの機能と影響の範囲を超えてしまっている。それが端的に現象として現われたのが、”アラブの春”であった。ソーシャルメディアによって、標的国家の情報空間を支配したのだ。その結果、政権転覆の実行手段としてさえ利用された。
この米国の画策は、ソーシャルメディアを”兵器化”してしまったのである。この件以外にも、スノーデンが暴露したように、この2社を含む、大手インターネット企業が、NSA(米国家安全保障局)とFBI(米連邦捜査局)に情報提供していたことも明らかにされていることを考え併せると、彼らのフェイクニュース防御策にも、彼らのロビーイング活動の成果を越えて、限界があることが見えてくる。因みに、現在のロシアゲートは、ロシアが米国のマネをしているだけともいえるのである。
既存メディアとしては、ファクトチェックに一定の関与はしながらも、その役割はネットメディアやNPOなどに任せて、自らの存在意義の一つでもある、調査報道を復権させ、より注力するべきであろう。短期的には、各機関のファクトチェックと法的措置を講じながらも、中長期的には丹念で緻密な調査報道により、その二つを補完していく複層的なアプローチを模索するべきである。これはメインストリームの企業としてのリスクマネジメントでもあるのだ。調査報道の手間暇のかけ方、またその検証作業の手間暇のかけ方、そして受け手の手間暇のかけ方(読み方)の組み合わせは、リテラシーの文脈からも欠かせないし、決してなくならなることはないと思いたい。
ところで、アドテクノロジーの進化とWeb広告の多様化は、それぞれの効果測定手法も多様化させている。しかしながら、ボットによる自動拡散構造は、ボットの投稿を他のボットがリツイートして、投稿を増幅させる仕組みになっているし、”いいね”、”フォロワー”などを売買する不正なビジネスの横行なども考慮すれば、何のため、誰のための”効果測定”か、ということになってしまう。ボット自体の拡散機能がもともとマーケティング目的から始まったことを考えれば、妙に腑に落ちることでもある。手段がすでに”偽の流行”作りという動機に基づいているからだ。これはスティルスマーケティングとも一脈を通じているものであることは疑い得ない。
“ポスト真実”時代の広告
”ポスト真実”時代の混迷を企業コミュニケーションの関わり方と立ち位置から考えてみる。まず広告について考察する。企業は前述のようにメディアとプラットフォームの狭間に置かれた存在である。しかも、このエコシステムの中におけるコミュニケーションコンテンツと流通の主体の一つである。その活動の総体は、コーポレートコミュニケーションと呼ばれ、それらは大きく広告と広報に大別される。フェイクニュースの構造においては、ネットの広告モデルを抜きにして語ることはできない。フェイクニュース作成者とそれを欲する多くの人々に届けるソーシャルメディアの存在と広告を自動配信する彼らのビジネスモデル(グーグルアドセンスなど)があり、もちろん広告主―すなわち企業がいる。
フェイクニュースへの企業の関与の一つとして広告があることは明白である。広告の本来の意味や目的からして、そぐわない表現かもしれないが、広告主としての矜持というものも、独占禁止法や景品表示法などの広告規制を持ち出さなくても、再考しなければならない。これは事業会社側のCSRに関わる問題である。仮に結果的にアダルトサイトや暴力的・差別的サイトなどの反社会的サイトに自社広告が出稿されてしまうことは、何としてでも避けなければならない。自ら仕掛けるステマの問題も同様である。先にも触れた広告効果測定結果に関していえば、旧メディアもネットメディアにおいても、測定結果の詳細が詳らかにされていない部分(ブラックボックス)のあることにも注意が必要である。
“ポスト真実”時代の広報と危機管理
そもそも企業広報が、今社会が求めているネタは何かを収集・分析・把握して、発表に繋げるのは当然だが、あまりに流行りに迎合し過ぎると、真実からは乖離する。逆説的にいえば、社会は真実を求めていないのかということになってしまう(ネットでもリアルでもコクーン化が進展し、社会が分断されていけば、その傾向は強まるであろう)。
広報が従来のメディア以外にも、多様なステークホルダー(マルチステークホルダー)に対峙していかなければならなくなったことは事実だが、それならば、あるいはそれだからこそ、個別のコクーンを越えた、より俯瞰的で普遍的な”(全体)社会の眼”が求められるはずである。それが広報と広告を分ける一線である。個別コクーンへの嗜好に合わせるならば、それは紛れもなくマーケティングセグメンテーションに応じた広告活動である。
ところがマルチステークホルダーを相手にしなければならなくなったために、利用・運営するメディアも4つ(PESO:Paid=広告、Earned=メディアパブリシティ、Share=ソーシャルメディア、Owned=自社メディア)あると言われている。コミュニケーションのオムニチャンネル化とでも言おうか。それだけに、従来以上に「広報・PR」と「広告・宣伝」との融合が推奨されており、言い尽くされた言葉ではあるが、シナジー効果の追求という意味では、それはそれで結構なことである。広告と広報が相互補完関係にあることは間違いない。しかしながら、インターネットがこれだけ社会全体・世界全体に浸透してくると、従来の広告と広報のファイアーウィ-ルが無意味になり、むしろ邪魔者扱いされている状況が散見される。
メディアの利用一つ取っても、相手方は、新聞社であれば、編集局と広告局があるのは、既知のことである。しかも、その両者にもファイアーウィ-ルがある。そういった経緯や実態を無視した広告と広報の”規律なき融合”は、百害あって一利なしである。
何故ならば、それを無視することによって、やらせ広告もスティルスマーケティングもフェイクニュースも出てきたからである。結局は、オウンドメディアであれ、ブランドジャーナリズムであれ(おかしな言い回しである)、そしてそれらが、価値観・共感・ストーリー性を発揮したとしても、消費の枠内でしかない。
一個人の中で消費行動だけが突出して重要性や時間を占めることは、果して良いことであろうか。それと同時に、思索や内面への向き合い、家族への向き合い、友人との絆などが同居していなければならないだろう。近年、多く聞かれる資本主義の終焉論に、マーケティングやPRは何も答えていない。そこを避けて、人びとの幸福論が語れるとは思えない。
グローバル資本主義が人びとを不幸にしたという認識も、ジョセフ・スティグリッツをはじめ、多くの経済学者から提起されている。
また、ブラック企業と評されたところの広報部は一体何をしていたのだろうか、さらにHP上で、CSRを高らかに謳ったり、何らかの賞を受賞した企業であっても、少なからず不祥事やスキャンダルを起こしてきた。改めて指摘するが、広告と広報はシナジー効果を発揮すべきだが、それと同時に相互牽制効果も満たさなければならないのである。
DeNAの「WELQ」に代表される虚偽情報をばらまいたキュレーションサイトの問題はフェイクニュースでもあるが、まさに偽広告でもあったために”ポスト真実”の文脈で語られることになり、大いに批判が集中した。DeNAの問題が発覚したと同時に、掲載記事の削除を行った、同業の企業も決して誉められたものではない。この事案は、従来の企業不祥事の事例の一環として捉えるべきものでもある。
危機管理広報との関係で言えば、今は事案の発生原因や再発防止にも絡んで、クライシスコミュニケーションと同様に、リスクコミュニケーションの重要性が高まってきている。
それに関連しては、既刊の『リスクフォーカスレポート統合版Vol.3 広報と危機管理編』 を、また
自社が運営するサイトの不祥事も含めて、クライシスコミュニケーションに関連しては、『同統合版Vol.5 緊急事態対応の理論と実際編』をそれぞれ是非とも参照いただきたい。
マクルーハンの『メディア論』に従えば、すべてのメディアは我々の身体の延長であり、中枢神経の延長である。したがって、「メディアとはメッセージである」ということになる。
それらのメディアは、今や重層化されて発せられているわけである。コンテンツではなく形態としての”メッセージ”なのである。フェイクニュース形態のメッセージ自体には、そこに存在するだけで、善悪の判断を求められているわけではない。ところが、自らの身体の延長であるメディアとそのメッセージの評価は、やはり自らが下さなくてはならないという当然の帰結になるのである。
今後、AIやIOT(これらもメディアであるが)がフェイクニュースにどのように絡んで、影響を行使するのかは不透明である。AIやボットによる世論操作に対しても、AIが有効なのであろうか。一つ考えられる展開は、AIとジャーナリズムの相互補完である。あくまでもジャーナリズムがAIをツールとして活用する局面である。そのとき新たなメディア論が構築されることを期待して本稿を終えることとする。
(完)